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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ハロウィンに思うこと

時事論考

ハロウィンが盛り上がりを見せている。渋谷での大混雑が話題となり、その経済的影響がバレンタインやクリスマスを超えたとか、あるいは本来はケルト民族の収穫祭だという本旨説明とか、マスコミやネットで取り上げられている。そうしたものを目にしているうち、僕自身が覚えていた違和感がなんなのか気付いた。

たとえば、イギリスではハロウィンはあまり盛んではない。ケルト人はスコットランドアイルランド地方の人々だが、この人たちが新大陸に渡ってハロウィンを継承しているので、欧州というよりもアメリカで盛り上がるのだから、当然といえば当然である。むしろ、土着の宗教をキリスト教に取り込んだものでもあるので、生粋のキリスト教徒はこれを邪教扱いして避ける傾向にもある。

アメリカにおけるハロウィンでもかなりの盛り上がりを見せているが、その様子は日本とは異なる。「トリック・オア・トリート」と言いながら仮装した子供が地域を練り歩くお祭りが、日本では、いい年をした大人が地元を離れて街へ繰り出して練り歩く。そこには異様さも漂う。欧米でも大人の仮装はあるが、それはどこかの会場へ行き、パーティーを楽しむのであり、仮装行列をするものではない。しかも、日本の場合にはオバケの仮装からも離れて完全にコスプレとなり、ヒーローも乗り物もなんでもござれである。

「なんだ、こりゃ」というのがテレビなどで映像を見たときの僕の率直な感想である。まったくの別物であり、そこに「ハロウィン」と名称を冠するからおかしなことになっているのだ。しかし、ここではたと気づいた。仏教においても日本仏教はインドとも東南アジア諸国とも中国とも異なって独自の発展を遂げてきた。日本仏教は神道とも融合した。近代以降になっても自動車やCDなど、最初は輸入しての物真似だったものが、いつのまにか日本ブランドとして確立してくる。こうした「取り入れて変質させる」のは日本のお家芸である。

僕が覚えていた違和感は、日本のハロウィンが元々のハロウィンを離れてまったくの別物だと認識できていなかったからである。日本のハロウィンは日本文化として醸成されたものなのであろう。日本の文化的特性、あるいは取り入れて消化して新たなものを生み出す文化的懐の深さ・文化的成熟さが、西洋のハロウィンをして日本のハロウィンへと変質させたのである。