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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

落としどころ

時事論考

人間関係にはすべて落としどころが存在する。この落としどころを見極めることはなかなか難しい。

三井不動産レジデンシャルが販売した横浜市の大型マンションを巡る事件では、旭化成はずいぶんと誠実な対応をしていると思う。もっとも、うがった見方をすれば、泣いた社長は言葉に詰まり、よけいなことを言わずに済ませたという点で、危機管理としても上々である。計画的だったかどうかまでは分からないが、結果的に見れば、ということである。

一方で、全棟立て替えを提案するなど、対応はさすがは一流企業といったところかと感心した。もちろん、住民は怒っていい。一生に一度の大きな買い物でもあったわけで、裏切られた事実は、どのような対応を事後に採られたとしても釣り合うものではない。巻き込まれたことは本当に不運としか言いようがないが、さりとて、怒り狂っているだけでは現実は何も変わらない。また、補償を叫んで相手を潰すところまでやっても、被害者も加害者も共倒れである。

踏んだり蹴ったりにならないためにも、現実対応の落としどころを見る必要があるだろう。泣こうが喚こうが相手を非難しようが倒産にまで追い込もうが、それで気持ちは晴れるかもしれないが、傾いたマンションという現実は変わらない。傾いたマンションをどうにかするところが、結局はそこに住む住民の最適解のはずである。もっとも、全棟立て直しをしても傾かない会社はすごいとも思う。

こうした落としどころを考えることは、日常の人間関係でもいえることであろう。「やってしまった!」は、仕事でもプライベートでもあることだろう。その時に、まず、なにが起きたのか、なぜ起きたのかを冷静に探すことが大切である。マンション事件でも、毎日やっている作業の10年前の記憶なんてものの調査など意味がなく、記録に当たる調査が時間がかかるにしても必要であろう。それを待つ忍耐が求められる。

それが悪意を持って意図的に行なわれたことならば、厳しい追及があってしかるべきだ。しかし、人間の弱さ、日常からくる慢心・緩みであれば、ある程度は寛容になる必要があるだろう。しょせん、人間のすることなのだから。

正しいからと言って、それでも理詰めで追い詰めるようなことはしてはならない。人を叱るとき、人を非難するときであっても、逃げ道の一つは用意しておくくらいの寛容さが欲しい。窮鼠猫を噛むの喩えのように、こちらに被害が及んでは、もっと面白くないし、自殺でもされようものなら、いくら自分は悪くないと強弁しても、寝起きの悪さや心への負担は軽いものではあるまい。強弁すればするほど、自らの心にはわだかまりや罪悪感が芽生えているということなのだから。

この逃げ道の一つも、というのが落としどころである。もっと小さな会社で、追及し、会社は潰れて社長は自殺して、不良物件はそのままという事例もある。この時、被害者は正しいが、救済されないばかりか、人を一人自殺に追い込んだ心の重荷を背負い込む。僕の主張には被害者が泣き寝入りする側面も無きにしも非ずだが、自分も含めた不完全な人間の集まりの中で生活していく以上、どこか、そうした余裕は必要だろうと思う。そうしたリスクが常に存在していることを意識して、生きていくのが最善のことではなかろうか。