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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

言葉は思考のツール

言葉論考

あまりにも当たり前のことかもしれないが、考えることは言葉の営みである。一人で考え事をしていようとも、頭の中では基本的に言葉で考えている。だから、語彙が少なければ、自然と思考は粗雑にならざるを得ない。考えるということを支えているのは、語彙の豊富さである。

我々が日常で用いる言葉には、話し言葉と書き言葉がある。我々が毎日を波乱万丈に生きているのではない限り、話し言葉の語彙は限られている。というのも、日常を過ごすだけなら、それほど難しい言葉を必要としないからだ。英語の学習の際に、「中学英語で日常会話ができる」という売り言葉を見掛けるが、英語でも同じだということだ。朝起きて一日を過ごして夜が来て、また昨日と同じような一日が過ぎていく。人それぞれではあるが、その人の日常場面はたいていの場合、繰り返しである。試しに英語で日記をつけてみるといい。構文や熟語など、同じ言葉を多用していることに気づくであろう。

しかし、書き言葉となるとそうはいかない。言付けや伝言のような用件であればともかく、考えたことを伝えていこうとするならば、そこにあるものは非日常である。人それぞれではなく、言葉を発する当初から語彙が与えるイメージを共有していかなければならない。だから、こまやかな表現が必要となる。にもかかわらず、日常の話し言葉だけで思考しようとすれば、どうしても思考自体が単純になっていってしまうのだ。表現する言葉が単純であれば、思考内容も単純になっていってしまう。

逆に、いろいろな言葉を知っていると、感情や思考自体が複雑で緻密なものになっていく。これが書き言葉の効用である。書き言葉には、話し言葉にはない多様性がある。表そうとする感情や思考が複雑なものであるのだから、それに対応した語彙が不可欠である。また、誤解を受けぬように緻密な用意周到さも求められる。だから、文章を書くということは、知性を磨くことに他ならない。書き表そうとすると自らの知識不足や思考の粗が見えてくる。そこを補正していこうとすれば、感情も思考も深まっていくのである。

言葉をたくさん知るためには、読書は最良の方法である。日常を豊かにしたければ現代小説を読むのがよいだろう。少し気取った言葉遣いがしたければ、明治期~昭和初期を舞台設定としたものがよい。そうすれば、我々が日常で用いられる言葉で溢れている。一方で、思考の質を高めたければ、論文を多く読むとよい。とりわけ、社会学の論文などは我々の生きる社会を説明してくれる。こうした読書は、その書かれている内容よりも、言葉を知り、それをきっかけに自らの思考を高めることに役立つ。だから、なぜ読書をしたほうがよいのかという問いに対して、「言葉を多く知ることができるからだ」という答えは、単純なようだが、まっとうな答えであろう。