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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

考える作法

言葉論考

昨日の投稿で、「考える作法」はまた別のお話と書いたので、今日はその作法について書いてみたい。

「考える」とは論理的思考のことで、具体と抽象を往復することである。こう書くと難しく感じるかもしれないが、日常生活の中で普通にやっている。

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ここで、まず、「ラーメンを食べよう」と思ったときに、「あー、でも昼にスパゲティを食べたからなぁ」となる時、そこでは一度「麺類」という抽象化が行なわれ、中華料理とイタリア料理が同じカテゴリーで比較されている。次に、「じゃぁ、カツ丼にするか」と思ったときに、「あー、でもカロリーが高いよなぁ」となる時、今度はラーメンとカツ丼がカロリーで比較されている。たとえば、ここで「回鍋肉を食べよう」と思って「あー、でも中華料理が続くなぁ」となれば、料理ジャンルでカテゴライズされたことになる。そこで最後に「麺類でも高カロリーでもない健康志向な焼き魚定食にしよう」と落ち着くのである。

この上の段落が丸ごと「考えた」ということである。ラーメン・スパゲティ・カツ丼・焼き魚定食という具体と、麺類・カロリー・料理ジャンル・健康などといった抽象との間を思考が行ったり来たりしている。仮に幼児に「今夜は何を食べたい?」と尋ねて、「カレー!ハンバーグ!スパゲッティ!」という回答が返ってきたのだとすれば、これは単なる思い付きであって考えていないことが分かる。思考が具体と抽象を行き来していないからである。好きなものを羅列したに過ぎない。

このように日常で無意識にやっていることを、意識的にやるのが知的作業である。すべての要因との間で抽象と具体の往復があるかないかを確認しながら次へと進めていく。あるいは、抽象化というカテゴライズが間違っていないか、適切にグルーピングできたか否かを確認していく作業である。ここを抜かしてしまうと、論理の飛躍であるとか論理が飛んだとかという批判を受けることになる。実際には頭の中にあることでも、それが表現できていない場合には、その文章なり発表は論理的でないのである。

これは「考える」という作業の基本形であるから、この基本から外れると行き詰まることになる。たとえば、人がなにかで悩む時、具体ばかりを念頭に置いて滅入ってしまっている場合が多い。具体であるから考えが進まない。考えが進まないから悩みとなる。なぜその具体例が出てきたのか、自分はどのようなことを気にしているのか、というような抽象化に失敗しているのである。だから、カウンセリングは患者の体験という具体を聞いて、それを抽象化していく作業になる。問題の糸が解れ、悩みが解消したという場合、うまく抽象化ができたということである。

ちなみに、何かで悩んでいる人が誰かに悩みを語っているうちに「あれ、なににクヨクヨしてたんだっけ?」となることもあるが、これは語っているうちに事象が整理されるからである。「それはどういう意味?」との質問に「だって、それってこういうことでしょ」と定義・解釈をして抽象化を行なううちに考えが進み、悩みが解消されてしまうからである。小さな悩みは自己カウンセリングで解消できる。

とはいえ、この抽象化が非常に難しい。これは全体像を把握する力であり、つまりは鳥瞰図を手に入れる力でもある。無意識にやっているうちは、たまたま出来たり、たまたま出来なかったりというだけの話になってしまうが、意識的にやり始めると、そのうち、出来るようになる。訓練の機会は日常でありふれているからだ。人は毎日なにかしら考えている。それだけの経験を積めば、上達はスポーツよりも早いだろう。