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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

道徳の定規化

教育論考

文部科学省は今日30日、官報で道徳の教科化に伴って改正した教科書検定基準を告示した。7月に改正案を公表し、パブリック・コメントを募集していたが、文言の変更はなく、改正案のまま決定となった。631件の意見が寄せられたが、そのすべてが道徳の教科化や教科書の検定基準設置への是非であり、改正案の内容についての意見はゼロだったらしい。

この話を聞いて、まっさきに思ったことは、人の話を聞く姿勢の大切さである。これだけでも「道徳」を教科化して教えていく必要性を感じる事象として充分な気がする。道徳の教科化や検定基準を設置することの是非についての意見ではなく、その基準の妥当性について意見を募集しているのに、正しく反応した人が皆無だったというところが非常に問題だと思う。KYどころの話ではなく、話が通じないのだ。自分が言いたいことを喚き散らしているにすぎない。

もちろん、こういう自分の意見を言いたい人がいること自体は予想もできたし、存在すること自体に驚きはない。しかし、それがすべてであったというところについては、驚きを禁じ得ない。改正案の文言や内容について知ることもなく検討することもなく、ただ、その是非について問題視しているのではないだろうか。政策の是非については、役所ではなく国会が陳情先である。

改正案の文言や内容について、これでは妥当性に欠き、適切に定義することができないから、従って道徳は教科書検定を伴う教科化には馴染まないと否定してくるならばともかく、中身を読むことなく、ただただ直感的に感情的に反対しているのだとすれば、その人の知性を疑ってしまう。安保法案でも、主催者発表で10万人とかいうデモ参加者たちは、はたして法案の文言を見たことがあったのだろうか。読んだことがあったのだろうか。その文章の意味するところを判断したのだろうか。

つまり、「考える」ということについて、疑問が生じてしまう。「何を」考えるかは人それぞれでもいいが、「どのように」考えるかという手順については、一定の手続きがあり、人々の間において共通である。これをしなければ、支離滅裂になり、人々の間での共通認識や相互理解はままならないものになろう。

一次資料に目を通すことなく、誰かの恣意的な情報を信じて、イメージを作り上げて結論へと達するようでは、盲信としか言いようがない。「考えている」のではなく「信じている」だけなのだ。この極めて基本的な「事実に当たること」を疎かにしている人が、日常生活での僕の周囲にも多い。池上さんのニュース解説も、分かりやすさを追求してイメージ化をしているが、これが人気を博すのも同じような現象である。池上さんがアウトプットしてくれた情報を真実として受け止めていくような姿勢では、いいカモにされる可能性がある。

すなわち、恣意的な情報操作にたいして抗う術を失ってしまうのである。昨今に話題となった新聞報道の捏造問題なども、実は同じ路線の延長線上にある。物事には「事実」と「解釈」、そして「判断」がある。この3つそれぞれについて検討するという手順を踏まないと、「考える」ことはできない。この3つの軌跡が「考える」ということなのである。「考えの作法」についてはまた別の話になるが、通り道については記してきたとおりである。分かりやすさを追求せずに、面倒で泥臭い地道な作業もまた、民主主義に必要なコストであろう。