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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

経済学は思想

経済論考

経済学を学べば学ぶほど、経済学は「思想」なんだなぁとよく思う。どういう社会にしたいかという希望に従って論理を組み立て、説得力ある説を展開する。マルクス経済学やケインズ経済学、フリードマン経済学など、その想定する「理想社会」が異なる。だから、説も異なる。

現代の世の中で、「説得ある論理」とは科学的手法を通して検証することであるから、すべての学問に方法論をめぐっての遣り取りが存在する。手法が科学的でなければ、その説は根底から覆る。実験を繰り返して実証的に取り組める理系分野、すなわち数学や物理学、化学、地学などでは、この方法論は比較的容易である。問題となるのは人文科学および社会科学である。

歴史や地理、思想・哲学などの人文科学は、人間の知的生産の成果である。人間の営みの観察である。地理は土地の形態の話であり、人間の営みと思われない場合も多いが、どこに都道府県の境界線を引くか、地名をどう付けるかなど、自然界には存在しない人為的営みである。また、どのようであったかという過去へ視点を向けているから、そこには事実が存在しており、その事実の解釈論になる。哲学・思想は「考えること」であり、未来志向とも見えるが、「どのように私は考えてきたのか」ということであり、やはり視線は過去(現在完了)に向けられている。事象が起こるにはさまざまな要因が複雑に絡み合っているが、その「起きたかもしれない他の可能性」を考えることなしに、「どのようにそれが起きたのか」を説明する性質を人文科学は持つから、比較的妥当性がある。

さらなる問題は、経済学や政治学などの社会科学である。これは未来志向であり、検証が不可能である。要因としての可能性をすべて含有していたら知識の体系なりえないし、条件付けを行なったら現実離れをしていく。個々の人間の心や欲が出発点にあるので、理性的にも感情的にも推し量ることが難しい。人間は時に理屈を超えた行動を採る。それが予想・予測を覆す。もちろん、その不確実性や不定性をできるだけ排除するために統計学があり、総体としての人間を描き出すわけだが、不確実性や不定性を排除できるほどのものではない。

経済学では金融工学などのように、政治学では計量政治学というように、より専門化して、それぞれの細分化された分野での精度を高めようとしている。昨今、ビッグデータがかつてないレベルで統計が可能となってきたということで注目を浴びているが、これも不確実性や不定性を排除しようという涙ぐましい努力の結果である。また、フォルクスワーゲン社の不正などのように、思いも寄らぬ「事故」が起きれば、それまでの予測・予想は覆る。人間の総体である大勢の人々に影響を与える一人の人物の登場によっても覆る。

だから、社会科学は科学たろうとするには限界がある。しかし、だからといって未来への理想を持つことが無意味だということにはならない。社会科学の特徴は、「構想力」「未来構築力」にある。どのような在り方が望ましいか、そのような在り方にはどのようにすれば到達できるのかということを説得力ある論理で語り、人々がそれを取捨選択し、次世代へと歩を進めていく。結論が先にあり、それを解説している時点で疑似科学であるが、この疑似科学であるという自覚と認識の下、政治学や経済学を利用していけばよいと思う。

社会科学は答えを示すものではなく、ある答えを皆で作り出そうという方針である。だから、政治家は、個々人としての幸せや効率ではなく、人間総体としての政治・経済・社会の理想や理念を語る。政治学はそれを取捨選択できるより良い環境(制度)を考察する。行政学はそれを実現していく具体的な実践を考察する。だから、社会科学を学ぶにあたっては、「答え」を求めるのではなく、構想力・構築力を学び、自らに活かしていくような学び方がよいと思う。

自然科学はありとあらゆる可能性を実験して検証し、他の可能性を排除して消去法で真理を目指す。人文科学は、起きなかったことの可能性を考えることなしに、起きてしまったことの理由・説明を考える。社会科学は理想を示してその過程を精査し提案する。したがって、社会科学にはその理想を扱う分野と、その実現性を担保する分野との二分野が存在する。最近、経済学を学ぶようになって、政治学でしてきたような学び方、すなわち「なぜ」を知ろうとするのではなく、「どのように」を検証する学び方をするべきだと気付いた。