学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

反知性主義

最近、「反知性主義」という言葉をよく耳にする。「反-知性」と「主義」という言葉の組み合わせで、「主義」というからには一定の信念を含む概念であろう。その含む価値観は何かというと、「反知性」、すなわち「バカ」である。「知性に反対する」と言うだけで、それが「バカ」には直結しないと思われるかもしれないが、これには歴史的経緯がある。

大の読書好きであった中国の毛沢東は、国民に対しては「本を読むほど馬鹿になる」と発言し、読書を禁止した。カンボジアでもクメール・ルージュの時代には眼鏡を掛けていただけで「知識人」のレッテルを貼られて逮捕され、暴力を加えられたり殺害されたりした。政権の側にとって国民は「バカ」の状態にしておくのがいいという「衆愚促進政策」を一般的に「支配者層が反知性主義を掲げる」という。衆愚状態を維持するには、民衆の腹を満たし、娯楽を与えておけばよいという。この手法は古代ローマより存在し、「パンとサーカス」という言葉に集約された。

最近の日本でこの言葉をよく聞くのは、安倍政権批判で使われているからである。複雑な社会問題を簡潔明瞭なキャッチ・フレーズに集約して問題の本質を見えにくくさせたり、ナショナリズムを高めて歴史を修正したり、という側面を捉えての「反知性主義」である。敵対勢力の台頭と脅威というようなナショナリズムの感情に訴え、人々を思考停止にし、実証性と客観性を軽視もしくは無視した都合の良い認識を国民に与えようとしている、と批判しているのである。もっとも、「戦争法案」とか「反知性主義」とレッテル張りをすることもまた、「反知性主義」の手法の一つなのだが。「本ばかり読んでいるような学者」の学問や知性を軽蔑した発言が喝采を浴びるのも、この流れの中に位置する。

この「反知性主義」は、実は取扱注意なのである。というのも、これを取り上げ、警告を発するということは、少なくとも自分には知性があると主張していることになるからだ。「反知性主義」のへの対抗は、「知性を磨こう」「教養を身に付けよう」「判断力を身に付けよう」ということであり、「バカを直せ」と言うに等しいからだ。当然、その提唱者は「バカ」ではない。愚民化政策に乗せられるなということは、少なくとも呼び掛けている当人はそれに乗せられてはいないわけで、「僕は賢い」「僕には知性がある」と宣言することには、なかなかの度胸が必要だろう。

ところで、この「反知性主義 anti-intellectualism 」は、現代的用法で言えば、実はアメリカ合衆国の国民性を表す言葉である。もちろん、この原義では「バカ」ではない。「共産主義者」とのレッテル張りをして検証や分析することなしに知識人を排斥していったマッカーシズムの嵐が吹き荒れたアメリカにおいて、その知的伝統を分析しようと、R.ホフスタッターが1963年に『アメリカの反知性主義』を著したのが初出である。

この本の中でホフスタッターは、「ピューリタニズムの極端な知性主義」に対する「ラディカルな平等主義反知性主義」とアメリカの知的伝統を大きく二分している。アメリカの平等主義は、その憲法に書かれた「何人も平等に創造された」というキリスト教的発想に根を持つ。すなわち、食堂の同じ簡素な椅子に、大銀行の頭取とすすけた炭坑夫とが隣合わせに座ることがアメリカ人を芯からしびれせるのであり、ここでの「反知性主義」には肯定的な評価が与えられている。知性と権力の固定的な結びつきに対する反感が根底にあり、この反感が社会の健全さを示すモノサシになるのである。

アメリカ合衆国の国民性を表す言葉に、「単純で積極的な実利思考」や「率直さや素朴さや浅薄さ」があるが、これもキリスト教に基づく道徳性が基盤にあり、これは「バカ」と見られることと紙一重の関係にある。この道徳性、キリスト教的に言えば「霊性」が「知性」に対する性質なのである。だから、「反知性主義」が問題にされる時代では、道徳論も併せて登場してくることになる。霊性が低ければバカになるから、この霊性は決して軽視できない要素になるのである。アメリカの正義感もここから発せられている。

日本とアメリカとでは「反知性主義」の意味するところが異なっているが、本家たるアメリカの「反知性主義」を知り、日本の「反知性主義」を見れば、キリスト教的思想が欠落している日本での認識の仕方が浮き彫りになる。すなわち、否定的なニュアンスしか残らなくなる。「知性を知識人に独占させない」という「反知性主義」からは、ビジネスマンが自己啓発に励み、生涯学習に勤しみ、タウンミーティングに積極的に参加しようとする姿勢が導き出される。「反知性主義」とは知性に反対して知性を否定することではなく、知性を積極的に取り組もうとする姿勢である。

だから、「反知性主義」について声を上げることは、「共に学ぼう」との呼び掛けであり、「自らはバカではない」と傲慢な態度を採ることではない。とはいえ、先ほども書いたとおり、日本でこの言葉を言うには、なかなかの勇気が必要なことではある。