学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

国民の姿は国会議員の姿

まずは産経新聞の記事を見てほしい。

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ここで注目したいのは、「衛視から『示威行為に当たる』として注意を受けた」点である。山本太郎議員による喪服&数珠&焼香の物真似はパフォーマンスと報道されたが、これもデモンストレーションであり、「示威行為」である。もっとも、人の死を弔う行為をパフォーマンスに使ったのだから、不謹慎極まりないと思う。自分の伝えたいことを伝えるためなら独善的になり、それがよいと思ってやっている。今まさに葬儀を営んでいる遺族がニュース映像で目にした時、どう感じるかは想像すらできないのだろう。他者の気持ちを斟酌できない利己的な行為だ。院外でのノリを国会に持ち込むことの是非が分からない人々である。

安全保障関連法が成立した後、19日のインタビューで民主党 岡田克也代表が「極めて残念。憲法の平和主義・立憲主義・民主主義に大きな傷あと残したと思う」と述べたが、当ブログで何度も主張してきたとおり、今回の与党のやり方は立憲主義や民主主義を脅かしてはいない。違憲かどうかについては司法府の最高裁が判断することだから、現状ではグレーである。「立憲主義と民主主義に大きな傷あと」を残したのだとしたら、それは野党の審議妨害のやり方のほうである。

参議院は「良識の府」とも呼ばれるが、良識が聞いて呆れる。品位もなければ良識もない議員が、一人ならず複数いる。傍聴席で示威行動をした衆議院議員もいるので、参議院だけの問題でもない。問題は国会という立法府の問題と拡大しても、過言にはなるまい。

しかし、このこと自体は、僕は非常に深く憂慮するし、きわめて残念に感じるが、我が国が民主主義国である以上、仕方がないと思っている。なぜなら、国会議員は国民の代表だからである。資格は選挙を通じて当選することだけであり、良識も品位も知性も資格要件にはない。こうした良識や品位や知性に欠けてもこれらを問題視せず、これらより優先されるべき他の要因があり、これらに目を瞑ってもある人を当選させたいという価値観の国民がいるということで、それが一定数の支持を受けたということなのだ。

国会議員の姿は、どのようなものであれ、国民を鏡に映し出したものだと思っている。良くも悪くも、これが民主主義なのだ。そして、これこそがギリシャの昔から民主主義は危険だ、国を滅ぼすと懸念されているところでもある。もっとも最悪にしてもっとも良い制度が民主主義なのだ。近代欧州で市民革命が行なわれ、その精神的理論的支柱を担った人々が、制度の次に考察に着手していたものは「教育」や「道徳」の問題であった。この基盤が失われてしまっては、民主主義は国民の生命や財産において危険なものとなるからだ。

海外のSNSなどでは、アメリカでもアジア地域でも、今般の日本の学生運動の愚かさを指摘したり、法律制定過程に対する平和ボケした日本を揶揄したりする書き込みが増えてきている。この一連の出来事を見ていて、冷静に我が身を振り返り、そして日常において品位を高め、知性を磨き、もって良識を養う「不断の努力」をしていかなくてはならないと強く感じた。まずは出来ることとして、我が身ひとりにたいする行動である。がんばろ…。