学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

立法の仕事と司法の仕事

今回の安全保障法案をめぐる一連の議論を見ていると、抽象的論議の限界を感じる。

集団的自衛権」「限定的な行使を容認」「我が国の存立が脅かされる事態」などをめぐって、定義が問題になっている。たとえば、負傷した他国の軍人を日本の病院施設に収容することは集団的自衛権の発動になるのか、「限定的な行使」とは、どこに線引きをするのか、その判断は誰がどのようにするのか、「我が国の存立を脅かす事態」には経済的なものも含まれるのか、などである。

法というものは、基本的には抽象的なものである。そうでなければ、法の運用はできない。分かりやすく言えば、「殺人罪」における「殺人」の「人」が問題になる。胎児は「人」に含むのか、含むなら妊娠何週までが「細胞」で何週目から「人」になるのかについて、裁判で争われたこともある。結果としては刑法としては妊婦を殺しても「一人を殺した」ことになり胎児は「人」にカウントされないが、民法では妊娠中に父親が死んでしまった後に生まれてきた胎児は無事に生まれてきたら「人」にカウントされ、相続権等を得る。

こうしたチグハグな結果が生まれるのは、刑法・民法の「法の精神」に拠る。どのような意図で国民の法益を守ろうとする法律なのかということを「法の原理原則」に則って司法が判断したからである。同様に、憲法という極めて抽象的な法が定める「最低限度の生活」の「最低限度」とはどのレベルかについても、具体的な判断をしたのは司法である。

法の成立をめぐって、事細かにあれはどうか、これはどうかと「度を超えてやりすぎ」てもあまり意味がない。政府が執行機関として法を解釈して実行するのは仕事である。それが法に反しているか否かは裁判所が決めること。憲法違反だのなんのというところにばかり議論が集中している国会は、「違憲立法審査権」を持つ裁判所(司法権)への越権行為ではなかろうか。そして、結局は法的知識がないので「戦争法案」だの「徴兵制の導入」だのという抽象的な「キャッチ・フレーズ」になり、法案の精神や中身からどんどんとズレていって、今度は「戦争法案じゃない」だの何のと再び定義論になる。この意味で、まるきり不毛な議論である。

国会でやるべきは、「法の精神」を決めることで、なにをしたいから、なにを実現したいから当法案を作るという論議だ。法の目的をはっきりとさせておけば、その後の解釈は司法権の範疇である。三権分立制度の精神を国会自らが破壊しているように見える。これでは民主集中制を採る中国のようではないか。憲法第25条の生存権「最低限度の生活」のレベル認定議論と、「限定的行使」の限定的の範囲設定は似たような問題である。問題があるなら訴えればよいのだ。成立した法案が違憲立法に当たるとして廃法命令を裁判所が出せばよい。

もう一度言う。国会がするべきことは、法の趣旨や目的を定めることだ。