学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

モラールのある社会

モラール」を辞書で引くと、「集団を構成する成員たちの多くが,その集団に対する信頼,集団内での自分の役割についての自信,集団目標に対する熱意,集団への忠誠心などを持っているような集団内の心理的状態。本来,軍隊用語では士気という」とある。つまり、職務遂行上における積極的な意欲のことを示す。日本語の「職業倫理」よりも一歩踏み込んでいるように思う。「積極的な意欲」であるから、信頼感、自信、熱意、忠誠心といった精神状態が付随している。

「モラル」は一般的な道徳のことで、「マナー」よりも時代や世代に左右されない普遍性を持ち、公私の区別、公正さを含み、公序良俗に反しない自律的なものである。したがって、自分の行動を点検・検証する「反省」の要素も含まれてくる。「法律」が最低限の公序良俗に反することを決めて、違反すれば罰するという他律的な側面を持つのに対して、「モラル」や「モラール」は法律よりも範囲が広く、自律的であって罰せられることはないが、時には「村八分」や「白い目で見られる」といった「社会的制裁」が加えられることもある。「社会的制裁」は「モラル」よりも「モラール」のほうで起きやすい。

モラール」は職業に付随するものであるから、その職務内容によって求められる「モラール」の高低が決まる。たとえば、最低限のルールである法律を「遂行する職務」である警察官に求められる「モラール」は、他の職業よりも厳格であり、一般人がポイ捨てや立小便をするのと制服警官がするのとでは、人々の受け止め方が違う。同様に法律や条例を作る」政治家や、人を指導する教師に求められる「モラール」も、きわめて高いほうに属する。

しかし、相対的な高低は存在するも、「モラール」がなくていいということでは決してない。どんな職業にも、その職務が果たす内容において、責任を持つという「モラール」は必要である。運輸業者は人や物を運ぶことにおいて、販売業者はモノやサービスを売ることにおいて、最善のものを提供できるように努めなくてはならない。一般な許容範囲のことをしているだけでは「当たり前」で、最善のものに近づけば近づくほどプロフェッショナルになっていく。

一般の人々が「そこまで…」と言葉を呑むほどに感心するような「こだわり」を持つ職業人を「職人」という。僕はこの「職人」という言葉が好きだ。「職の人」である。そこまで職に自らを捧げ、「こだわり」を持って行動する信念を持つ。これには生きた経験が必要であり、常に自らの行動を点検・検証する勇気を持ち、サービスを受ける側のことを考え配慮する。それほどの「作品」提供になるからこそ、昔の職人は家や刀、包丁などのどこかに名前を刻印したのである。品質保証である。同じような考え方は、現代でも、生産者の名前や写真を載せて販売している野菜などにも存在している。ブランドなどでメーカー名を見て信頼・安心を置くのと同じである。

だから、各人が自らの職業的位置を確認し、あるいは社会的立場を確認し、それぞれが時間をかけて「職人」や「期待されている身代」(狭くは父や母、兄弟姉妹などの血縁関係や師弟などの社会的関係)へと育っていくような社会が望ましい。そうすれば「社会」という集団がうまく機能する。究極理想主義的には、より下位概念の「法律」など必要とされず、義務なども課されない「無政府状態」がよい。「無政府状態」は秩序のない混乱状態と解されることもあるが、すべて構成員が「モラル」と「モラール」を身に付ければ、そこにも無政府状態が表れてくるのである。良い意味での「無政府状態」は究極理想主義的なので、現実的には人々の間の利害や諍いを調整する政府の存する社会となるであろうが。

最後に、「職人」や「期待されている身代」に時間をかけて育っていくという点について、赤子を放っておいて自然発生的に「育つ」わけではない。キッカケを作り、基本的な知識を授け、動機付けする「指導者」が必要である。血縁関係では長者や惣領家、社会的には上司や教師などである。「育てる」ことに関わる人々である。だからこそ、「教育」は国家の根幹であると思う。ここを疎かにすると社会が崩壊する。現代日本では、この「教育」が疎かにされてはいないか、「教育」に携わる者の程度が低いのではないかと、問題提起をしておきたい。