学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

儚いほどの主権者

国民主権」「主権在民」とは、日本の政治の在り方を規定した概念である。すなわち、「国の権力は国民が持ち、政治は国民によって行なわれる」ということである。これを一言で「民主政治」という。

さて、ここで少し立ち止まって考えてみよう。

「主権」というのは、「最高権力」のことである。なんの制約も受けずに、ありとあらゆるものを超越する力である。歴史的にはこれは中世のヨーロッパの中から誕生した。中世のヨーロッパでは国王権力は、教皇権力や封建領主の伝統的な権力によって縛られていた。教皇や封建領主よりも優越する権力(superanus)として、なによりも物理的な「力」の概念として発達した。

これは単純に考えれば納得のいくことである。どんなに素晴らしい法律があっても、その実行者が遂行する力を持っていなければ、すべて「絵空事」になってしまう。一面において、「力」の要素は集団生活の欠くべからざる要素である。でなければ、無法地帯と化す。

そうした「最高権力」が「国民」のものであるという「国民主権」は、「国民以外に最高権力を持たせない」というふうに読み直せる。フランス革命の時にシェイエスが「第三身分はすべてである」と宣言したように、「国民主権」とは「第一身分と第二身分(国王・貴族・僧侶)を排除した主権」であり、「君主主権」の対概念である。つまりは革命と切り離せない「闘争的な性格」を持っている。

ここに内部と外部という2つの側面を見ることができる。1つは対外的に他の権力の支配を寄せ付けないという独立した「力」の側面であり、もう1つは国内的に権力を誰が掌握するかという「闘争的」な側面である。けれども、国内において誰が船の舵取りをするかという問題は、そもそも船が沈没したり乗っ取られたりしないかぎりにおいて、初めて成り立つ問題である。

主権を初めて定義したボダンによれば、「臣民が君主の法律に服し、君主が自然法(神の法)に服して、臣民の自然的自由と財産の所有を保障する」となっている。ここで問題となるのは「最高権力」が自然法の束縛を受けるという点である。これを「王権神授説」と片付けることも可能だが、この意味は「主権」には「正しさ」が伴わなければならないという「条件付き」と解せるであろう。「主権」は宗教的にも根拠付けられていたのである。

昨今の日本では、さまざまな問題が起きているが、まずは対外的に日本の独立を確立し、もって国内の政治を正しさを持ってするとよいということになろうか。安保と国内政治の権力闘争を見るにつけ、人々が「何が正しいのか」という疑問に行き着くのは時間の問題であるように思う。今、脊髄反射的に反応して声を上げている人々も、遠からず「正しいこと」について考えるようになるだろう。

だから、哲学がブーム(時代の潮流)になる。9月8日の投稿でイデオロギー論を書いたが、階級闘争ではないイデオロギー、すなわち理念を見つける欲求が起きてくると思う。その時に、誰かが用意した理念に乗っかるなら、国内における権力闘争に敗れた側となる。誰かに答えを教えてくれるよう頼むようでは、「主権を持つ国民」ではなくなっている。主権者であることは、かくも骨の折れることなのである。結果として与えられた権利の上に胡坐をかいていては、失われるほどに儚いものなのである。