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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

非礼な意見表明

今、安保法案が巷間の話題に上っているが、少し整理してみたい。

基本的に賛成派・反対派の主張は平行線である。お互いがお互いを「分からず屋」と思っていることだろうと思う。それは同じ現象をどう捉えるかという価値観と視座の問題だからである。テレビでインタビューに答えている人たちを見て思ったことを以下にまとめてみよう。

賛成派は「国際貢献」や「世界標準」を意識しているようだ。グローバル化時代にあって、一国主義では成り立たず、それ相応の負担をし、世界のメンバーとして存在しなければならないという。これは1990年の湾岸戦争以来の日本のトラウマである。イラクに侵攻されたクェート支援に日本は多国籍軍の必要経費の約1兆4000億円(130億ドル)を負担したが、紛争解決後にクェートが全世界に出した感謝声明に、日本が含まれていなかったのである。加えて、昨今の中国の軍事的台頭が脅威として意識されている。日本に手を出したら大変なことになるという軍事的オプションの可能性を確保しなければならない、と。

一方で、反対派は「戦争に巻き込まれる」や「徴兵制は嫌だ」に視点がある。鎖国的発想である。モンロー主義のような側面を持ち、他国のことには関わらないという中立的姿勢を主張する。紛争に巻き込まれたくないから関わらないという姿勢である。また、反対派は、現在の集団的自衛権憲法解釈の変更で出てくるのなら、現状でダメだと解釈されていることもやがては済し崩し的に拡張され、次第にエスカレートしていくことを懸念している。憲法が歯止めのはずなのに、解釈ひとつでどうとでもなるようでは困るのである。

それぞれが主張する言葉だけを見てくると、賛成派がリベラルないし左翼的で、反対派が保守的になる。しかし、現実的には、賛成派は右翼的で、反対派が左翼的である。これは対立する相手の論理で説得しようとしているからであろうか。たぶん、そこまで考えてのことではないだろう。では、この矛盾は何なのか。

おそらく、賛成派は現実主義なのだ。手続きはどうでもよく、今、目の前にある事態に対処しよう、必要なら後から手続きなんかすればよい、現実的に必要なことだろう、と。そして、反対派は現実にズルズルと引きずられて手続きを疎かにしてはならない。手続きは自由や権利の保証なんだから、これをないがしろにしてはならない、と。こういう主張にすると、右翼と左翼の辻褄が合う。今回の論点は、「現実>手続き」vs「現実<手続き」なのである。

だから、①現状認識として、中国やテロをはじめとする国際環境の変化をどう思うか、②手続きは、とりあえず動くのか、自由と権利のために譲れない一線とするのか、というような論点を一つずつ話し合えばいい。

しかし、一番の問題は、いずれの立場にせよ、よく分からないままに、賛成ないし反対を表明する人々が大多数ということだ。意見表明をする人の大多数が、安保法案の中身やそれが意味するところまでをしっかりと理解して把握したうえで、賛成ないし反対を叫んでいるわけではないように思う。無責任である。当ブログでは、いつも「自分の頭で考えよ」と提唱している。考えるためには材料(情報)が必要で、それを自ら集めに行かないとダメだ。なぜなら、受動でいると、発信元に都合の良い情報を流されてしまうからだ。

なんとなく空気に流され、一次資料に目を通すこともなく、人から与えられた情報だけで、または雰囲気で、賛成だの反対だのを表明しないようにしなければならない。知りもしない人たちとは議論が成立しない。つまり、「話し合い」の成立する余地がないのだ。耳を傾けるほどの価値がないばかりか、それを人に聞かせるのは非礼ですらある。準備もせずに登壇する人の、聴衆をコケにした態度はあるまい。