学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

なんか気持ち悪い

9月3日、次の二つのニュースに触れて、気持ち悪さを感じた。

これに加えて、先月はロシアのメドベージェフ首相が択捉島を訪問したり、ロシア外務次官が不穏当な発言をしたり、というニュースがある。

アメリカが日本を持ち上げ、中国やロシアが日本を落とす。アメリカが「日本は世界の模範だ」と言えば、中国は「中華民族が不撓不屈で日本軍国主義の侵略者を徹底的に打ち負かした」と言う。どちらも外交としては行き過ぎな観がある。こういう言動によって土壌が少しずつ整い、ある時にほんの小さなキッカケで軍事衝突が生まれるのかもしれないと感じる。

第一次世界大戦のとき、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者が銃撃されるという事件をキッカケにして大戦が始まったとされているが、今、これを冷静に見ると、これが大戦の契機にはならなかっただろうと思う。むしろ、なぜ、このような局地局部的な事件を収められなかったのかと疑問が生じる。話が長くなるので割愛して書くが、実は「民主主義国家」であったからだ、というのが僕の考えだ。

政治に関わるのが王侯貴族だけであったなら、事はすんなりと済んだであろう。しかし、国民の熱狂がこれを阻止した。第二次世界大戦ヒトラーによって煽られた民衆の熱狂がブレーキ機能を破壊したが、第一次世界大戦では逆に民衆の熱狂のほうが政治指導者を煽ったのである。いずれにせよ破壊衝動が理性を失い、暴走を始めるといった背景には、民主主義体制と民衆の間に充満する「空気」があるのだと思う。

民衆が主人公の体制では民衆の声は拠り所である。これはアメリカや日本に限ったことではなく、中国とて大なり小なり同じである。そこへのリップ・サービスなのか、あるいは国民の間の空気がそうさせるのか、普通なら言わないような過剰な表現が政治家の口をついて出る。オバマ大統領の発言も習近平国家主席の発言も、ともに過剰であり、薄気味悪い。どちらの陣営にも余裕がなく、しのぎを削っているからに他ならない。

こうした時、戦争は起きやすいのではないかと危惧している。「怒髪、天を衝く」というが、そうなった時には理性の声は個人の中でも集団の中でも掻き消される。いつの時代のどこの国の人も戦争なんてイヤなものである。しかし、止まらないものなのである。止められないものなのである。今こそ、世界各国の政治指導者はもとより、我々国民の側も冷静に、理性と知性を発揮する正念場のように感じられる。

日本国内における「ネトウヨ」と「サヨク」の対立も、感情的に高揚している感が否めない。その中にあって、流れに身を任せて、あたかも自分の力で泳いでいるかのように錯覚して、実は空気に飲み込まれているということがないだろうか。その一員となると、そこでの常識は世界の常識とばかりに拡張していき、異なる常識を持つ人を異端扱いし、敵とみなす。こうなると、紛争や対立、ひいては戦争は日常の些細なことをキッカケとする。引くに引けずに戦いに身を投じていく。こういう集団的な思考に身を投じることなく、各人が自分の頭できちんと考えることが今ほど求められているときはないと思う。