学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

泥縄

安全保障関連法案に関して、当ブログでも一言、付言しておきたい。

安全保障関連法を成立させると、やれ徴兵制が始まるだの、やれ戦争が始まるだのという立場の人たち(主に野党や一部の運動家)がいるが、僕の立場は、それらと真っ向から対立する。誰かが指摘していたが、そうした主張は「火事が起きると困るので消防署を撤去しましょう」というチグハグな論調に聞こえてしまうのである。

代替エネルギーをどうするのか、環境への配慮はどうするのかという付随する別問題はあるが、原子力発電などは「事故が起きないように止めてしまう」こともできるから、今回の話とは質的に異なる。安全保障はそうはいかない。最悪のケースを想定して対処するのがリスク管理である。起きるか起きないかという可能性の話ではなく、起きたらどうするかの仮定に基づく議論である。

SEALDs関連で、福岡の大学生が「もし本当に中国や韓国が攻めてくるというのなら、僕が九州の玄関口で、とことん話して、酒を飲んで、遊んで、食い止めます。それが本当の抑止力でしょう?」とスピーチした。では、相手が話さない、酒を酌み交わさない、遊ばない、というように対話を拒否していきなり攻めてきたとするならどうするというのか。無法者を相手にしようというときに法で守られた安全状態を想定した対応は身を滅ぼす。もっとも、こう主張する学生が中国語も韓国語も満足に話せないなら絵空事であるし、中国や韓国の要人が彼を相手にするとは思えないので、土俵にすら乗っていない解決策の提示である。

この学生の発言から派生して、外交ということを言うなら、外交は片手で殴り合いをしていても、もう片方の手はしっかりと握手をして離さないものである。そして、外交における要諦は、背後に軍事力を備えているということに尽きる。なぜなら、外交は本質的に国益国益のぶつかり合いであり、「武力で解決する」ことも外交手段の一つであるからだ。ここには冷徹な国益の衝突と調整がある。国内における警察権力や司法権が存在しない空間では、まさに軍事力による裏付けが話し合いを促すのである。無視できない軍事力を持つからこそ、話し合いに応じなくてはならなくなるのである。おとなしい人相手には虎になって話し合いを「うるせぇっ」と拒否して理不尽な要求をするような乱暴な人でも、圧倒的な武力を持つ警察官相手ではおとなしくなり、話し合いに応じ始めるのと同じ理屈である(この場合、警察官とは個人ではなく組織的な集団のことである)。

だから、実際に使うかどうかとは別に、使える状態、軍事力の有効状態にしておかなくてはならない。過去70年間を振り返って平和だったとしても、それは冷戦期であったりアメリカの軍事力の傘の下にいたわけで、アメリカの巨大な軍事力を背景にしていたといえる。昨今はアメリカの力が相対的に低下する一方で、中国が相対的に上昇してきた。今までと同じ話は通用しない情勢が出現しているのである。

国の話を個人の話に矮小化することは避けるべきことながら、分かりやすさのために敢えて再び喩えてしまうが、日常ではもし誰かと衝突しても話し合えると思うし、話し合いを拒否して殴りかかってくる人がいたら警察に頼ることができる。そうした安全が保障されているという信頼があるから、丸腰で街中を歩けるのである。内戦中の国や紛争地域で日本にいるときと同じように丸腰で歩くことはできない。それは最終的な安全保障がないからである。自らの身は自ら守るしかないからである。それができないなら行かない。行って殺されるなら自己責任であるし、その自覚があるからこそ、そうした地域へは無防備では行かない。自らが武装するにせよ傭兵を雇うにせよ、金をかけてでも安全保障をした上で赴くのが常識である。

国際社会もこれと同じである。でも、国際社会には「自分の身を守る自信がないから行かない」という選択肢は存在していない。としたら、自分の身を守る術をできるだけ頑強なものにしたい。個別に無理なら他との協力関係を探すのが妥当であろう。普段は目に見えずにその存在を感じることのない背後にある軍事力・警察力という武力を、見えないし感じないからという理由で軽んじてしまえば、取り返しのつかないことになる。他に柱があっても大黒柱は切れないし、家の土台が土の中にあって見えないものなのでその存在を忘れ、土台をなくしてしまえという主張が、いかに乱暴な理屈であるかは言うまでもないだろう。

こうした見えない構図をきちんと把握したうえで議論をすべきである。これがなければ「頭がお花畑」ということになる。路上でハンストを気取る人たちも、盗難などに遭わないよう自衛しているだろうし、盗まれたら盗んだ人と返してくれるよう交渉するとは言わないだろうし、そのうちの一人が反対派の暴漢に襲われたら残りの人たちが「僕は襲われていないので」と傍観することもしないだろう(そんなことをしたらその集団は崩壊するが、地球という国際社会からは逃げる先がない)。そして、襲われたら警察の庇護を求めるのだろう。そうした警察の庇護を信頼しているからこそ、彼らは真夜中に路上で眠れるのだ。国際社会はその警察官がいない世界だということを前提に話を進めていかなければならない。