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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

「学府」を考える

「最高学府」という言葉にある「府」は、「中枢の役所」という意味である。国の中枢であれば「国府」、今は無き「東京府」、そしてかつての「京都府」、「大阪府」など、中枢機関には「府」がつく。東京は唯一のものとして差別化するため「都」に改められたが、明治維新の時に「都(みやこ)」であった京都や二大都市の大阪は「府」となった。奈良は歴史的に遠かったのである。

もっとも、京都の場合、「京」も「都」も「府」も「みやこ」という意味合いなので、3つの漢字がすべて同義という意味では、一番の「みやこ」なのかもしれない。さすがは千年の「みやこ」である。そして、その伝統を引き継ぎ、京都の東に位置するから「東京都(ひがしきょうと)」である。東西南北の「みやこ」は、東京、西京、南京、北京とあるので、日本が中国の文化的影響を受けていることは言葉からも見て取れる

平安時代の終わりから勢力を拡張し、身分をあげてきた武士は、もともと軍事組織なので、御宮、御殿、御堂に住まず、戦地にて野営するものであった。戦地では仮のテント暮らしである。このテントを日本語では「幕(まく)」という。だから、武士の政権は「幕府」という。帷幕の中に置かれた「みやこ」である。

さて、こうしてみてくると、「学府」とは学問の中枢である。さらにはそこに「最高」と冠したからには、中枢の中枢という意味になる。この最高学府を「大学」というが、「大学」とはもともと「国家の大計を考えること」である。いわば大説である。これと対になるのが「小説」で、こちらは「個人の思うこと」である。大学の成果がその国の盛衰を決めるのは、こうした意味からである。この「大」の使い方は、他にも「大義名分」などにみられる。

だから、大学教育では、卒業生は各分野でのエリートになり国を導き、そのエリートが他の国家と比して立派である質的担保を確保しないといけないと僕は主張しているのである。これはナショナリズム国粋主義だという話ではない。右派にも左派にも共通して言えることである。ソ連も中国も教育を大切に扱っている。あらゆる科学の基本にあるスーパーコンピュータ開発に国の力を注いで国際競争をしている。一番手ではなくてはならない理由がここにある。二番手じゃダメなんです。

ここしばらく「文系だ理系だとしゃらくせぇ」、「全国統一『大学生』テスト」、「意識高い系(笑)」という投稿で問題とした背景には、大学とはこういうもの、最高学府とはかくあるべきという認識がある。この基本認識を共有していないと、そもそも論なく、現状の「大学」を見ている人から誤解を招く恐れがあると思い、今回の投稿となった。