学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

中国という民主国家

中国は民主国家である。こういうと首をかしげる人が多いかもしれない。だからこそだろう。中国共産党機関紙がフランスの新聞に鋭く反応している。フランス国際放送、RFIのニュースサイトで「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と掲載したのに反発している。

環球時報は論評記事の中で「中国こそが最大の民主国家だと胸を張って言わなければならない」と呼び掛け、「中国の政治制度は民主制度の範囲内だ」と強調した。まったく正しい。中国は、議院内閣制でも大統領制でもない、民主集中制という体制であり、これも民主主義体制の1つである。しかし、これは制度という静態を見た場合であって、実際の運用面という動態ではどうかというのは別問題である。人口で「最大」であるし、「民主国家」であるし、「民主制度の範囲内」ではあるが、「民主的」かどうかとは話の次元が異なる。

民主国家では、多様な意見が存在しうる。そして、多様な意見を相互に検討し、建設的な議論を進めていくことが理想とされる。「集約」とか「合意」に至る道筋で対立しても、最終的には一丸となりましょうというのが議論の本質である。最終的にバラバラになって個々でそれぞれ勝手にやりましょうというのではお話にならない。

大多数の労働者が資本家から搾取される体制を否定し、国家にある資本を国有として、すべて国民を労働者にし、その労働者が幸せになれる道を共産党に指導してもらいましょうという「最終的合意」に至ったものが共産主義国家である。そして、ここにおいて全員一致であり、「総意」という「一般意思」から外れる者は排除しようという動きになる。あるいは、共産党の指導に従わない者は排除しようということになる。多様な見解はあってもよいが、基本的合意、すなわち「理想の最高状態」だけは譲れないということである。

だから、左翼は内ゲバとか内紛を起こしやすく、また、優先順位の高い(と彼らが思っている)事柄については妥協の余地がないばかりか、同調しない人を排除しようという動きに出る。同調しない人は頭がおかしいというような狭隘な非寛容になる。つまり、「理想の最高状態」に反対する人はあり得ず、もしいるとするなら「指導」や「教育」、「矯正」、「排除」が必要になるのである。自分の価値観で「最高至善」なるものに関して、相手の意見も聞かず、自らの主張ばかり感情的に押し付けてくるような人は、毎日の報道の中にも頻繁に現れている。

共産主義社会からすれば、資本主義社会は遅れているのであり、共産主義が出来上がる前の未成熟な過渡期にある。でも、先進的な少数者なので、大多数からは理解されず、誤解も受ける。ガリレオと同じ苦悩である(と書いたらガリレオに失礼だろうか)。そこで中国は我が国こそ民主国家と声をあげたかったに違いない。こう見れば、冒頭で首をかしげた人も納得してくれると思う。

思想の基軸、土台が異なるとこうも見え方が違う。我々の日常にあって意思伝達・意志疎通のコミュニケーションをするとは、いかに難しいことであろうかと再確認した。