学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

モノの見方

モノの見方にはいろいろなものがあると思う。時にはこれが原因で対立したり、議論が平行線のままに終わってしまうこともあるだろう。相手を理解できないとか、「斜め上からの回答」という状況を生んでしまう。今日はそんなお話。

西欧の近代合理主義的な自然観は、「人間中心的」で、人間が周囲のものを相対化したり対象化したりするモノの見方である。ルネッサンスで「人間」を再発見して以降、西欧の近代は人間中心に物事を見てきた。民主主義的な価値としての自由も平等も博愛も、貧困からの解放という経済学も、人類に役立つという視点からの科学も、こうした自然観を基にしている。

こうしたモノの見方と真っ向から対立するのが「エコ思想」である。「環境を守ろう」というモノの見方だ。これは自然の中に人間を位置付け、自然を構成する一員という「ちっぽけな存在」として人間を把握する「自然中心的」なものである。人間が相対化された自然観である。「人間中心的」なほうでは人間が絶対化されるが、こちらでは、自然が絶対化される。すなわち、存在するだけで尊い自然に「神性」が与えられ、それを破壊する人間は悪であるということになる。ちょうど、西欧の近代合理主義が人間を生まれながらにして尊いものだと規定したように。この善悪の規定は、宗教性を帯び、宗教対立の様相を呈するのである。

なぜ、このような話題を取り上げたかといえば、原発推進派と反原発派の対立の根底には、こうした自然観のズレがあり、お互いがお互いを理解できないものとして認識しているからではないかと感じたからである。人は「得体のしれないもの」にたいして攻撃的になる。自然な防御反応である。そして、ここでは嫌悪などの感情が舞台に上がってくるのである。こうなると、感情の対立となって収拾が難しくなる。理屈ではない宗教性を帯びた対立である。

世の中の出来事の感情的対立は、モノの見方が根底から異なっていることに端を発することが多いと思う。物別れを導く感情の対立は、そもそも何を中心に据えているかという優先順位の問題である。つまりは、どちらが最優先かを巡っての争いであり、それぞれが譲れないものについて、相手の土俵を見ることなしに自分の土俵だけで相撲を取り始めるから、そもそもの取り組み(議論)が成立しないのである。

誰かと対立したとき、あるいは対立を調停しようとするとき、このようなモノの見方ができれば、合意に至らずとも、少なくとも感情的な対立は避けられるであろう。ここでは2つの自然観しか扱っていないが、実に多くの自然観があり、しかも、同じ人が複数の自然観を場合によって使い分けていることも珍しくない。だから、それを整理しながら相手の話を聞くことは非常に難しいが、それでも、民主主義社会においては、その努力はしなければならないだろう。