学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

「意識高い系(笑)」

モラトリアム人間の時代」(小此木啓吾 著、中公文庫)という本がある。初出は1977年である。モラトリアムとは、簡単に言えば「学生は社会人になることを猶予されている」という捉え方である。「学生のうちに遊んでおけよ」「学生のうちしか遊べないんだから」という大人のセリフが代表的な認識である。そして、本書の予見通り、少し前、その「モラトリアム」が延長されて、学生を卒業しても「モラトリアム人間」であり続ける現象が起きた。フリーターニートである。

しかし、近頃、大学生と接していると、もはや「モラトリアム人間の時代」ではなくなったように感じる。このブログの副題風に言えば、「ポスト・モラトリアム人間の時代」に突入したようだ。というのは、就職を想定した学内講座に1年生や2年生が多く参加してくるようになっている。あるいは、3年生においてインターンシップへの参加が必須のような空気がある。2年生でもインターンシップに参加する学生も出始めた。

いわゆる「意識高い系」である。やや否定的に用いられる言葉ではあるが、これは1~2年生の時に「モラトリアム」を経験し、読書やサークルなどのいわゆる「学生生活」に勤しんだ学生たち、すなわち「リア充」の側から、危機感を交えて発せられる言葉のように思う。否定的ではあるが、否定しきれない気持ちの葛藤や焦りが背後にあるように思う。

20年ほど前は「インターンシップってなに?」という時代であった。就職活動は3年生が終わるころから始まり、4年生の前半には終了しているものだった。大人の側も当然のように学生に即戦力は期待しておらず、就職してから研修に次ぐ研修で育てていくというような、ゆったりとした時代であった。バブルが崩壊する前で、企業にも余裕のあった時代である。

今や就職活動に資格が必要であり、大学生のうちに戦力を備え、それをアピールしていく時代となったのではないか。うかうかとしていたら就職ができない時代となった。今はそのちょうど過渡期で、まだ半数に満たない程度の「意識高い系」がいるにすぎないが、今後は「意識高い系」が主流となるのかもしれない。

一方で、大人の側は古いものを引きずりがちである。「自分がそうだった」の感覚を持ち続ける。だから、「学生のうちに…」というセリフで学生たちを路頭に迷わすようなことのないようにしなくてはならない。時代をしっかりと見据え、時代の変化に敏感になって対処しなければならない。

若者の危機感を伴う修行は、時代の要請に伴うものである。大人の「学生なんだから」は昔の感覚を引きずっているものである。このギャップが「意識高い系」という言葉を生み出した。学生からしてみたら時代に合った当たり前の行動をしているのにもかかわらず、「学生なのにすごいね」という高評価に変わる。ある意味でお得な時代ではある。

しかし、こうした「意識高い系」はなにも学生に限ったことではない。同期の中で部長になる人材は限られている。昔は年次を過ごせば自動的にある程度の出世はできた。部長級という「部長でない部長」もいた。そうした高級取りを抱える余裕のあった時代の話である。官僚も天下りができなくなり、多くが転職をせずに出世をしないままに官庁に残るようになってきた。過渡期においては、これが若者の夢を奪い、出世欲を失わせている。

こうなると、若手社員のうちから部長になるべく「意識高い系」でなければならない。新入社員、若手社員というような「モラトリアム」は存在できなくなる。何度も言うが、今は過渡期なので、どちらも共存しているが、時代は「ポスト・モラトリアム」の方向に流れている。否定的なニュアンスで語られる「意識高い系」でなければ、遠くない未来で困ることになるだろう。