学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

全国統一『大学生』テスト

文系学問の質的低下を食い止めるには、どのようにすればいいのだろうか。

そもそも論を展開すれば、たとえば、法学部は法曹関係者を、文学部は文学者を、経営学部は経営者やコンサルタントを輩出するところである。医学部が医者を、薬学部が薬剤師を輩出しているように。このように、学部と頭脳的職業が結びついているのが本来の形態であり、この根本的関係を今もなお維持しているのが理系である。この意味で、現状では理系は崩壊しておらず、文系は崩壊したといえる。

専門学校が技術的教育機関である一方で、大学は、頭脳的専門家を輩出する高度教育機関だったはずである。大学は、猫も杓子も高校を卒業したら次に通うような場所ではなかったはずである。ここに今日の最高学府が抱える本質的問題がある。

しかし、いわゆる理系が大学の体をなしているのは、国家試験なりなんなりの客観的指標を基準にしているからである。一流大学であっても国家試験に通らなければただの人であり、三流大学でも国家試験に通れば医師になるのである。だから、優秀な大学が優秀であり続けるためには、国家試験の合格者を増やし、維持しなければならない。ここに理系の大学が専門家を養成する機関たりえる理由が存在する。

文系もそうするべきである。全国統一的な客観的指標が必要である。この「卒業試験」を合格しなければ、就職後の待遇も給与も高卒と同等に扱うという仕組みだ。文系の質的低下は、同じ科目名の履修でも大学によって程度が異なり、しかし、単に単位を取得すれば同等の資格を得られるから起きる現象である。すなわち、何大学を出たかということが質的保証をすることになり、学歴社会ならぬ学校歴社会が到来した。すると、学校を単位とする相対的評価となり、水は低きに流れるとの喩え通り、三流はますます三流になり、一流はかつての二流へ、三流へと質的低下を起こす。

これに歯止めをかけるには、大学は最高学府として、それぞれの分野でのリーダーや専門家を養成する機関になるべく、全国統一的な資格試験を実施するのがよいであろう。大学は社会のエリート層を形成する人物を生み出す。だからこそ、ある国の大学のレベルはその国のレベルに直結するのである。質的担保をするためには、何大学を出たかではなく、大学4年間で何を学び、何を身に付け、実学として何を社会に還元できるかという指標を持たねばならない。

これが大学の質を決定し、大学の栄枯盛衰を決めるのだとすれば、黒板に向かって独り言を呟くような怠惰な教授は淘汰され、過去の栄光に胡坐をかく教授は淘汰され、学者も常に己を磨かなくてはならない状況が生まれる。教授する側も教えを乞う側も、ともに最先端学問を学び、爪を研ぎ続けなくてはならない。そもそも「実学」とはそういうシビアな世界だ。大学が世俗を離れた竹林の賢者よろしく、ビジネス界とは違う緩やかな世界になっている現状も改めなくてはならないが、全国統一『~学部生』テストは、この問題をも同時に解決する処方箋のように思う。そうなったとき、これも四谷大塚が作ることになるのだろうか(ニヤ)。