学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

文系だ理系だとしゃらくせぇ

6月に文科省が「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」(PDF)という文書を各国立大学法人へ通知した。18歳人口の減少を見すえ、教員養成系や人文社会科学系の学部について、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」などと求めた。これを受けて、国立大学法人のうち、およそ半数が改廃を計画していることが分かった。

文系出身の僕としては、正直、心中穏やかならぬものを感じる。

昔、理系の学生から「文系は何を研究しているの?」「役に立たないことばかり」と言われたことがある。その時、僕はいきなり相手を叩いた。「なにをするっ!」と向かう彼にもう一度、拳を振りかざすと彼は防御態勢を取り、身構えた。その時、「それが人文社会科学(歴史)を学ぶ意味だ」と答えた。

すぐに数値で成果を求める傾向のある刹那的現代では、数値化に馴染まない学問は「無駄」のように思えるかもしれない。理系の中でも、基礎研究分野はすぐに、あるいは直接的に成果には結びつかない学問もある。しかし、それなくしては応用科学は成り立たないのである。すぐに成果に結びつかないからといって基礎研究を疎かにすれば、科学技術の発展は現状の枠組みにとどまり、今後の「ニュートン以降」は登場する機会を得ないだろう。「社会的要請の低い分野(すなわち長期的な社会的要請の高い分野)」も大切である。

そして、結局は自然科学を使うのは人間である。その人間の研究がなければ自然科学は存立の足場を失う。しかし、これはなかなか見えるものではなく、また解釈の仕方一つというような側面もあり、言葉遊びをしているように見えてしまうことも確かだ。これは文系学問の質的低下がもたらしたことと表裏一体である。実利をもたらさないからという理由で文系学問を切って捨てる大義名分がここにある。はたして文系は「科学たりえるのか?」という疑問がここにはあるのである。

ポストヒューマンな時代において、人間科学が置き去りにされ、自然科学が幅を利かせるようになってきている。そして、かつて人の手が携わっていたところが機械に置き換わり、人間の活躍の場はますます狭まっている。究極的なことを言えば、機械が機械を産み、機械が機械を直す。人は労働から解放され、労働に価値が置かれた時代に終止符を打つことになる。その時、人間は与えられた時間をどのように過ごすのか、哲学的な問い掛けが待っているだろう。だからこそ、文系学問の伝統は消してはならないのである。クローン技術が生まれたとき、同時に倫理的な問題も生まれたのである。

しかし、そもそも文系だの理系だのと分けたのは人間のエゴである。人間の都合である。自然界には文系や理系の区別はない。理系の最先端は観察もできない環境で理屈で成り立っている。その論理的思考の様は、対象を変えただけでまるきり文系の思考形態と同じである。つまり、「考える様式」という方法論においては、文系と理系の区別は存在しないのである。対象が異なっているだけだ。

ここで「実学」という考え方が大切になる。これは「役に立つ」とか「目に見える実利をもたらす」という意味ではない。「実学」というのは、人間を幸せにするのに貢献する学問のことである。文学も絵画も音楽も美術も歴史も政治も経済も哲学も思想も心理学も物理学も化学も工学も建築学も、すべては人間の生活を豊かにし、幸せにするために存在する。ここに学問を志す意義がある。それぞれはそれぞれを補完しあい、協力し合いながら存在している。建築学で居心地の良い空間というのは、数学的に弾き出されるものではない。不条理な人間の心の感じるところに居心地の良さがある。

この意味で、文系や教職系の改廃を行なうのではなく、文系と理系の垣根を越えて融合的な学部構成へと転換していくべきだ。ブログ・タイトルにもある「学際知」である。これであるなら僕は今回の通達に大賛成である。単に文系や教職系だけにメスを入れるなら、大反対である。と、同時に、文系に属する諸学問は、その質的低下に歯止めをかけるような改革を受け入れなくてはならないだろう。これについては、また明日の記事で扱おうと思う。