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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ヒーロー渇望症候群

最近,甲子園での高校野球に関する報道を見ていて,本当に日本人はヒーローが好きなんだなぁと思う。野球は少なくともチーム戦のはずであるが,ある特定の選手以外は蚊帳の外である。ある活躍した高校一年生をして「~の夏,終わる」というタイトルの付け方は,その同じチームの3年生はまるで眼中にない。大人の世界と無関係に清々しい高校球児たちの祭典が歪められて報道されているように感じる。マスコミが「ハンカチ王子」とさんざん持ち上げていたときにも,同様のことを感じた。

思えば,小泉純一郎氏(および息子の進次郎氏),石原慎太郎氏,橋下徹氏,そして安倍晋三氏など,政治の世界でも同様である。個人の偶像化やイメージの独り歩きが始まり,やがてそうしたイメージに合わないところが出てくると批判をする。こちらで作り上げたイメージを相手に強要し,都合のよいヒーローを渇望する。

民主主義の世界では,ヒーローは存在しなくてよい。強くて立派なリーダーに導いていってもらいたい,リーダーシップを発揮してこの国を導いてほしいという願いは,民主主義においては横着者の思想である。そういう民衆は独裁国家共産国家に住めばいい。全部やってくれる。民衆は要望だけを伝えればよい。誰かに委ねておしまいとするような思想は,遠からず独裁制へと移行する。

この意味で,民主主義はきわめて保守コストのかかる体制である。安穏と生きているだけでは民主主義は維持できない。民主主義は,一人一人が我が事として政治を捉え,情報を集め,思考し,判断していくことを要求する。憲法第12条でも,「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と書かれている。「権利の上に胡坐をかく者」(丸山眞男)の権利は守られないばかりか,侵害されるものなのである。

民主主義においては,自ら主体者となって行動する気高い精神と,主体者としての強い責任感,社会の構成員としての道徳観などに支えられた個人がいなければならない。だから,昨今のヒーロー渇望論に触れるにつけ,不安になる。一人一人がリーダーとして全体を導いていこうとする世の中が来てほしいと思う。