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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

自己規定のススメ

哲学思想

「自己規定」という言葉をご存じだろうか。簡単に言うと、「私は何者なのか?」という問いへの答えを自ら生み出すことである。アイデンティティの自覚的確立である。商品などで言えば「コンセプト」に該当するものであり、そのものの性格をズバリ決めるものである。

これと対極にある言葉が「自分探し」である。これは「本来の自分」ないし「本当の自分」がどこかに埋もれていて、それを発掘してくるがごときものである。しかし、僕はこちらの考え方には賛同していない。自分探しの旅に出て、旅先にて本当の自分を見つけるのだとしたら、それまでの自分は何だったのか、という疑問にぶつかるし、そもそも遺跡よろしく発掘するような確かな何かが自らと無関係のところに埋もれているはずもない。

生まれ出た生物としての人間は、何者でもない。さまざまな環境や多くの経験から人格が育ってくるのであり、もともとプログラムされた何者かになるのでは決してない。これが中高生を超えたあたりから自我が芽生え、自らを客観視し、そうして自分というものを認識していくようになる。その際、僕はこんな人間だと決めつけてしまうのも、一つの自己規定である。そうなると、なかなか自ら作り上げた殻を打ち破ることは難しくなる。

ところが、就職活動や社会へ出ることを通して、「ありのままの自分」では通用しなくなる。学生のうちには許されていた部分が許容されなくなってくる。この時、アイデンティティの崩壊やメンタルへの悪影響が出始める。鬱病や社会的不適合は、こうしたあたりから発生するのだと思う。志望動機や自己実現などを考えることを強要されるとき、はたと立ち止まって考え込んでしまう。それまでにそうした生き方をしてこなかっただけに、途方に暮れる。

そうした時に、もっとも出てくる考え方が「僕は何に向いているのだろう?」である。自分の特性や指向性を心理テストなどで知ろうとする。そして、それらがあまり役に立たないことを知って愕然とするのである。心理テストや自己の振り返りは、それまでの自分である。それまでの自分が何かに打ち込んできたり、何かの目標をもって自己研鑽に励んできたのでない限り、心理テストや自己の振り返りは役に立たず、また、そうしたものがある場合にはそもそも心理テストなどに頼ったりしない。既に明確に分かっているからである。

人間は思い描けるものは実現できるという。飛行機も携帯電話も、そうした「夢」から派生してきたものだ。これは科学技術に拠らず、人間に対しても真理であろう。だから、自分はこうなる、こうなりたいという姿を描き、現実の自分に足りないところを補い、一歩一歩近づいていくことがよい。現実とのギャップが現在の自分の課題である。そうして進んでいくと、気が付いた時には自分にはこれしかない、自分にはこれが向いているとの確信を得る。自信は過去の自分の足跡を見る・知ることで生まれる。

だから、決心や覚悟が必要なのである。これと決めて取り掛かること。自分らしさを作るにはこれしかないであろう。取り掛かれば、そのうち、その分野についての知識も経験も増え、やがてはそのエキスパートへと成長していく。一流のスポーツ選手も料理人も、最初から一流であったわけではない。その道で邁進してきた結果である。こういうプレイをしたいとイメージ・トレーニングをして、こういう料理を作りたいとシミュレートして、試行錯誤の行動の末に実現してくるのである。

だから、自己規定として、人格でも能力でも、僕はこういう人物であると思い描き、夢を含まらせるとよい。たいていは実現できる。もちろん、日常生活を縛り付けるルールになるのだから、最初のうちは苦しいし、努力も大いに必要となるだろう。しかし、習慣化してしまえば、いつのまにか自然になる。これが理性的に生きるということである。と同時に、自由に生きるということでもある。

眠いから寝る。腹が減ったから食べる。こういう行動は一見すると自由に見えて、実は本能に束縛されており、自由ではない。本能の支配下にいるのである。真の自由を得るためにも、理性による自己規定を行ない、その実現へ向けて懸命に生きることこそが、自分のやりたいことを見つける近道と思う。何にも取り組む前から自分のやりたいことなど見つかるはずもない。とりあえず、なにか1つ自己規定して、それに取り掛かるとよい。おのずとやりたいことも見えてくるし、増えてくるであろう。