学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ぼんやりとした世界

『大人の対応力』(齋藤孝 著)が売れている。職場や友人関係などの人間関係に悩む人向けに「質の良い大人」という「社会人らしい生き方」を伝授してくれるらしい。新時代に必読の「教科書」らしい。いわく、「ユーモアを持つ」、「グレーゾーンを残す」、「一喜一憂しない」、「他人を変えようとしない」、「むやみに人間関係に傷を付けない」ということらしい。

書籍の中身自体についてとやかく論評するつもりはない。しかし、こうした書籍が売れるということは、こうしたことに対する需要がある、少なくとも手に取ってみようと思うほどには人々の琴線に触れるということである。人間関係の悩みというのは、古今東西を問わず、また老若男女も問わない。しかし、その解答はやはり時代を映し出すように感じる。

ユーモアは会話の潤滑油として重宝されるが、それにも「皮肉ユーモア」から「ほっこりユーモア」まで多種存在するが、この書籍に並ぶ文言から察するに、「ほっこりするユーモア」こそが求められているのだろう。「むやみに人間関係に傷を付けない」ユーモアなわけだから、優しいユーモアである。

「グレーゾーンを残す」のも「むやみに人間関係に傷を付けない」ために必要な「遊び」の部分である。人間関係に「一喜一憂しない」ことは、疑心暗鬼に陥らないためでもあるし、不要な追求をして相手を責めたりすることを引き起こさないことだから、これもやはり「むやみに人間関係に傷を付けない」ということだ。そして、独善的な正義を振りかざしたり、自分の思うように相手をコントロール下に置こうとするなどして「他人を変えよう」と介入することは不要な摩擦を生むわけで、ここでもやはり「むやみに人間関係に傷を付けない」ということである。

つまり、「大人の対応力」とは、「むやみに人間関係に傷を付けない」ための具体的な所作を学ぶということに集約されてくるようだ。僕はこれを「希薄な人間関係」と思う。職場や社会での人間関係というビジネスに割り切ったとしても寂寥を感じるが、友人に対してもこれというのでは、「大人らしさ」とは、極端に言えば「人間らしさ」を捨てることと同義のようにすら思えてくる。

軋轢を生むかも知れないが、相手のことを真摯に思えばダメなことはダメと相手に進言することもあるだろうし、だからこそ、そうした直言がよかったかどうか一喜一憂するであろうし、進言するからには誤解を招かないようにグレーゾーンはないほうが望ましい。むろん、そうした時にもユーモア精神を発揮できる程度にはリラックスした雰囲気でいたい。これはしんどいかもしれないし、しがらみを生むかもしれない。けれども、それ以上の信頼関係を育めるとも思うのである。

だから、本書でいうようなものは、薄く広いビジネス界、職場、取引先で有効と思う。こうしたところでの遣り取りにグレーゾーンは残すほうがよいし、一喜一憂することはないし、相手を変えようなどと傲慢なことは考えずともよい。希薄な関係でなんの問題もないからだ。しかし、職場でも自分の所属する場所ではやや濃くして、友人関係などにおいては、もっと濃くしてもよいと思う。濃淡の問題であって、読者が本書で学んで「あらゆる人間関係への処方箋」として欲しくはないなぁと感じた。

こうした人間関係をうまくコントロールできないというのは、公私の別が希薄になった時代背景があるのではないかと拝察する。ビジネス相手や職場でも「ぶっちゃけトーク」が展開され、「私」がビジネスに持ち込まれた「一昔前」があり、人々が人間関係に疲れてしまった感がある。振り子が反対のベクトルに向いたわけであるが、どっちというのではなく、濃淡で考えるべき問題のように思う。濃いほうに「私」があり、淡いほうに「ビジネス」があればよい。

職場で鬱になってしまう場合、多少なりとも「私」でビジネス社会に接し、しかし「私」の社会ではないから歪んでしまったのではないだろうか。歪みが生じたから、歪みの原因である「私」をビジネス社会から駆逐しようというのは分かるが、本書広告の帯などで「友人関係」までをも含んでしまったことが残念でならない。

「大人の対応力」を持って人間関係を希薄にし、ぼんやりとさせることで心の安寧は訪れないと思う。いざというときに対立や軋轢を生むような「暑苦しい」「重たい」「うざったい」関係も必要であろう。心の叫びを明確にし、一喜一憂する気持ちを理解され、だからこそ、あれこれと口を出して介入してくるような存在がなければ、人は真の交流など持ちようがないと思う。そして、この打ち解けた厄介な友人こそ、逆説的だが、安寧をもたらしてくれるのだと思う。

プロや職人の衰退は社会の衰退

本職に任せる」とか「本職にはかなわない」というような表現がありますが、これはそれを専門とする人、玄人(くろうと)の取り組みにはかなわないという意味である。本来的には「本職」とは「その人がおもに従事する職業」であるが、上述したような表現の中には、玄人に対する尊敬の念が含まれているように思う。というのも、そこまでの域に達するためには、多くの経験値を得てきたであろうし、血の滲むような努力を重ねてきたであろうという、プロセスへの敬意があるからである。

だから、「本職」には、ちょっとやってみただけの素人程度、あるいは「おもに従事する」に値しないレベルの取り組み程度では敵わないだけの「専門性」や「高度な技量」がある。僕はこのことを指して、従来、「プロフェッショナル」とか「職人」という表現を用いてきた。そして、こうした表現は、「医者」や「弁護士」などの資格職ではないものにたいしてこそ有益だと思っている。というのも、資格という、第三者による客観的な証明が存在しない「プロフェッショナル」や「職人」の分野があると思っているからだ。

これは自明であろう。「素人がちょっと手術をしてみたが、やはり本職には敵わない」という恐ろしい状況は、前提としてすら存在しないからだ。したがって、こうした表現は、素人でも手を出せる分野で有効となる。たとえば、「教育」はまさにそうだ。もちろん、「教職」という資格職ではあるが、「教育」自体は家庭でも職場でもどこにでも広く見られ、かつ、資格職でない「教授者」が存在する。同じ延長線上でいえば、「助言者」や「相談相手」もこれに当てはまる。

自らに顧みれば、「先生」と呼ばれるのに相応しいかという自問自答は常にある。おこがましくも「先生」と名乗るのであれば、少なくとも「先生」に相応しいだけのものを身に付けていなければならない。こうなると、当該分野について「よく知っている」ことはもちろん、「よく実行できる技能」も併せ持たなければならない。こうした意識で20年やっていると、周囲からようやく「本職には敵わない」といってもらえるような場面も出てきた。そして、こうなってくると、自らの職業にこだわりやら譲れない原則やらが生まれてくる。そう、「職人」は頑固なのだ。

このことは「先生」に限らない。営業マンであれ事務員であれ技術員であれ、自分の職掌内容について、ひとかどの一家言を持ち、こだわりやら信条やらを形成するものだと思う。どんな職業であれ、そのプロフェッショナルや職人は存在する。いや、していなくてはならない。先輩や同僚、後輩を含め、「負けない」というだけの存在になるべく、努力をすべきだと僕は思っている。でなければ、取引を含めた買い物なんて出来なくなる。商売は相手への信頼があってこそ成り立つ。魚屋の目利きが悪いとか魚が腐っていたとかであれば、その魚屋は廃業するしかない。売る魚についても、その保存方法についても、他より秀でていれば、その魚屋は繁盛する。

しかし、最近、こうした「名称」に対する詐欺的行為を目にすることが多くなった。新卒新入社員で半年もすれば「コンサルタント」を名乗る。勤続年数を重ねたという理由だけで、配属先が変わったばかりの人物に「上級コンサルタント」が付与される。「コンサルタント」は字義通りならば「相談員」なので、AとBのどちらの商品を選ぶか悩んで店員に「相談」すれば、店員は確かに「家電コンサルタント」であり「コーヒーコンサルタント」である。しかし、従来、「コンサルタント」といえば、隣接する業界情報までを含めて熟知し、出回る商品の観点別優劣を見定め、客の要望にマッチングさせるだけの、きわめて高度で専門的な職業内容だったはずである。

安易に名乗りを上げることは、その職業の尊厳を傷つける。現状を知れば、いまや「コンサルタント」になんの価値も見いだせまい。いや、「コンサルタント」はあくまで例であって、銀行員、保険外交員、証券マンであっても、それだけの専門性や高度さは失われている。金融緩和により、銀行でも保険や証券を扱い、もはや専門性は失われている。たんに「銀行」と呼ばれているところで働いている「素人」でしかない。

もちろん、絶滅危惧種とはいえ、銀行でもどこでも「プロフェッショナル」な人や「職人」は存在している。しかし、こうした「プロフェッショナル」や「職人」の少ない社会は衰退の一途を辿る。継承が行なわれず、組織は経年劣化していくしかないからだ。いきなりの固有名詞で恐縮だが、今のホンダに本田技研創設の頃のような情熱的な技術者(単なるサラリーマンではない技術者)がどれだけいるだろうか。ソニーは?パナソニックは?東芝は?メガバンクは?

僕はこうした思いで教え子に接している。だから、1人でも多く、教え子の中に「プロフェッショナル」や「職人」を作りたい。自分自身が職業名を貶めるような仕事をしていないか、常に反省をしつつ、より頑固になっていきたいと思う。

新元号 解題

f:id:tribnia:20190401211023p:plain

元号

早速にも練習をしてみました。「令」の字はなんともバランスの取り方が難しい。「和」のほうはいくぶん慣れている字でした。二番煎じ、三番煎じになることを覚悟の上で、改元を記念して備忘録として1つ記事を投稿しておきたい。

初春の令月(れいげつ)にして、気、淑(よ)く、風、和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かおら)す

初春の佳き月、空気は美しく風も和やかで、梅は鏡の前で化粧をする(おしろいをはたく:フェイスパウダーをつける)ように白く咲き、蘭は腰帯に付けた玉器のように香っている

手始めに、時の宰相による説明を附しておこう。

 この「令和」には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。

 悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人びとりの日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、「令和」に決定致しました。

万葉集という歌集の位置付けを通して「令和」の背景を描き、まさに万葉集におけるのと同じように多様な階層の人々が集い、そこで生まれた文化が伝統的となるほどに長く保存され育ってきたという想いを乗せたという。さらには、出典となった歌の背景が「梅花の歌三十二首」の序文からとなっているが、ここに「梅の花」がある。ここで総理談話の「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花」の比喩が生きてくる。ここに四季折々の変化を読み込み、さきほどの多様性に裏打ちされた「1人びとり」の一輪が大きく花開き、その総体としての日本の姿を描いている。なんとも壮大である。

多様性はダイバーシティとして東京都を始め、多くの政策の中で注目されているし、新学習指導要領の中でも謳われている「21世紀の教育」が要請されている要素でもある。きわめて現代的な文脈とも合致する願いである。

また、「梅の花」に注目をすれば、その花言葉は「不屈の精神」あるいは「高潔(心が気高く清らかなこと)」である。デフレの日本にあって、不撓不屈の精神は必要不可欠の精神の在り方であり、道徳の荒廃が指摘されるようになった日本にあって、「高潔」は地域コミュニティ再生の鍵でもあろう。更に一つ一つ見れば、紅梅の花言葉は「優美」、白梅の花言葉は「気品」である。ここに文化の香りを感じるのは僕だけではないだろう。「多様な梅の花」の個性の総体として「全体としての梅の花」がある。

そして、「梅の花」は次代天皇となる皇太子徳仁親王殿下のお誕生日である2月に美しく咲く花でもある。「令和」と共に歩まれる次代天皇に相応しい元号ではないだろうか。名前はこうなって欲しいとの願いを込めて付けられる。親が子に託す想いの象徴でもある。「令和」という名前に込められた壮大な想いを忘れることなく、僕もまだまだ次代で花を咲かせようと思う。

ちなみに、これまでをちょっと振り返って、今回の記事を終えることにする。

「平成」は、『書経』の「地平天成」で「地、平(たいら)かに、天が成る」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」ようにとの願いを込めた。

「昭和」は、『書経』の「百姓昭明、協和萬邦」で「百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す」からで、「 国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う」ものであった。

「大正」は、『易経』の「大亨(だいこう)は以って正天の道なり」からで、「天が民の言葉を嘉納(進言などを高位の者が喜んで聞き入れること)し、政が正しく行なわれる」ようにとの願いを込めた。

「明治」は、『易経』の「聖人、南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」からで、「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味が込められていた。

学習指導要領に見る社会の変遷

仕事にかまけてブログ更新をサボってきました。およそ2ヶ月ぶりの更新となります。年度末の忙しさは悲惨ですね。さて、この2月と3月は大学や専門学校の教員と交流し、また教員研修の講師としても活動をしてきました。この中で感じてきたことを今回は題材にしてみようと思います。

2017年・2018年度に改訂された新学習指導要領が、幼稚園、小学校、中学校、高校でそれぞれ2018年度から2022年度にかけて導入されていきます。ちょっとこれまでの流れを整理しておきましょう。学習指導要領の設定は、全部で7回ほどありました。以下の流れで複数年あるところは、小学校~高校まででズレがあるからです。おおむね10年前後での改訂です。

1958~60年 法的拘束力を持つものとして、系統的な学習を追求

1968~70年 教育内容の現代化(詰め込み教育

1977~78年 知・徳・体の備わる豊かな人間性ゆとり教育の開始)

1989年   個に応じた指導(ゆとり教育

1998~99年 「生きる力」、高校に「情報科

2008~09年 基礎的知識・技能、思考力・判断力・表現力(引締)

2017~18年 主体的で対話的な深い学び

 このようにまとめてみると、3つの潮流があります。第1次~3次までの内容拡充と難化、第4次~5次までの内容絞り込み(減少)、第6次~7次までの内容再拡充です。でも、こうしたものには社会的背景がつきものです。

現場任せで自由にやってきた当初の反省から法的拘束力を持たせて系統化し、ソ連人工衛星の技術が米国よりも進んでいることに衝撃を受けた「スプートニク・ショック」により内容を拡充・難化し、「落ちこぼれ」が続出したので緩めていき、学力の低下を招いたので再拡充したという流れです。これは、①冷戦の開始ないし高度経済成長、②冷戦ないし安定経済成長、③冷戦の崩壊後ないしバブル経済崩壊後という政治経済状況が、それぞれの学習指導要領改訂に影響していることは明らかです。

戦後の復興期に欧米に追いつけ追い越せとなって無理をし、冷戦が安定期に入るとそれが緩み、再びの国力低下によって再強化というふうに読み取れるわけです。つまり、現実社会の側から「このような人材が欲しい」というようなものがあり、それに応える形で学校教育が変遷してきた関係を読み取れます。だから、学習指導要領は曖昧な抽象表現が多くなっていますが、それに具体性を与えるためには、教員には現実社会に対する深い洞察が求められるのだなぁということです。

しかし、一方で教員の側は、自らの専門とする分野の習得に忙しく、または昔取った杵柄で仕事をする人が多く、多くの場合、現実社会への深い洞察や対応が出来ていない状況にあります。学習指導要領に謳われている「精神」を抜きにして表面的に「書かれていること」を抽象のまま実現しようとしても、実際には回らないのだなぁと感じる次第です。

学習指導要領が変わり、来月から55年ぶりの制度変更(1964年の短期大学創設に続く2019年の専門職大学の新設)があるなかで、「主体的で対話的な深い学び」とは何かという問い掛けは必須です。「主体的」「対話的」「深い」「学び」という4つの抽象表現を具体化し、かつ自らの担当科目の中で具現化していくという作業は、教員にとって最重要テーマです。一言で言えば、AIの開発・発展による、「AIにはできない人間の役割を明確化」することですが、これとてAIと比して「人間とは何か」という壮大で抽象的な哲学のテーマが含まれています。もちろん、「主体的」「対話的」「深い」「学び」という視座がAIと人間を区別するところだとのヒントは出ています。

蛇足ですが、語弊のある言い方ですが、はっきりといってしまえば、短期大学は大卒男子総合職へ花嫁を斡旋する役割を担っていました。短期大学に家政科が多かったのはその証拠です。短期大学は女子が行くところというイメージもこれゆえです。しかし、1985年の男女雇用機会均等法以降、女性の社会進出が促され、短期大学はその使命を終えたと言えます。青山女子短期大学や立教女子短期大学が学生募集停止したり、4年生の女子大学といえどいくつかのところで共学化したりしたことは記憶に新しいところでしょう。この意味で、専門職大学・短期大学の創設は、21世紀日本の社会的要請の結果だとみることが出来ます。

話を元に戻すと、こうした学習指導要領の改訂は社会人にとっても無縁ではありません。なぜなら、学習指導要領は前述してきたように現実社会を映し出す鏡であり、今、そこで謳われている能力が現代社会に必要ですよという合図に他ならないからです。また、「自分は習わなかった21世紀の能力」を訓練された人間を新入社員として迎えることになります。時代遅れの人間となって「老害」やリストラ対象になってしまうかもしれません。

そして、社会の変化は加速度的に速まっており、10年一昔どころではなくなりました。学校を教育を終えてもなお「学び」が必要とされます。これの象徴的な動きが「リカレント教育(学び直し教育)制度」です。これを迎え入れるのは、少子化によって経営難にあえぐ大学や専門学校です。そこの教員が現実社会の変化に疎いのでは話にならず、また、必要とされる抽象的能力の具現化を考えたこともないのでは制度は茶番に終わります。これをいかに現場の教師に促していくか、こんなことを考えて苦悶していた2ヶ月間でした。

「老害」を考える

老害」と一発で変換されたことにも驚くが、ウェブでその意味を引くと、「自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪」と出てくる。当初は耳慣れない言葉であったが、その「害悪」が表面化・顕著化するにつれ、おそらくは一般的に広く使われるようになってきたのであろう。そこで今回は「老害」なるものを考えてみようと思う。

当初、僕は老境にさしかかる前に自らは「老害」にはなるまいと意識したことを覚えている。そこで、どうしたらよいかという葛藤が始まったのである。若手を理解せず、その邪魔になることが「老害」とされるならば、若者におもねって若者に賛同し、若者と共に行動していけばいいのだろうか。いや、それでは単に若者に迎合しているだけであって、若者をスポイルして(人間としてダメにして)しまいかねない。時には厳しい助言や指導は必須であろう。憚りながら、そういう職に就いているし、そういう経験も積んできたと自負している。

そこで、考え事の常。反対概念を考えてみる。「老益」である。儒教からの影響により、そもそも長老や元老といった考え方が昔から日本にあるが、これは西洋とて同じである。経験を積み、落ち着き、大局観をもって大所高所より物事を見ることのできる老人は重宝されてきた。これが「上から目線」と批判されることになったのだろうが、おそらくは「上から目線」の中身には、大所高所に含まれている「偏見や私情を捨てた広い視野」が欠けていると判断されたからであろうと思う。

もう一つは、時代の流れが加速し、時代の変化のスピードが飛躍的に上がったからだと思う。「俺が若い頃には…」「俺の時には…」「俺はこうやって来た」というような「経験」が時代の変化の速度に対応し切れていないから、「今はもう違う」とか頑迷な時代懐古に陥っていると判断されるのであろう。こうなれば老人は過去の時代に偏り、偏見の塊となる。だから、今の時代の「害悪」でしかなくなる。

となれば、老人も最先端を学べば良い。最先端を理解するのに過去に築いてきたものと融合させ、それをどう見るか、どう捉えるか、どう判断するかという具合にしていけば良いのだと思う。ただただ最先端をというのではなく、抽象概念で今昔を比較検討し、時にはブレーキをかけることもあろうし、時にはアクセルを踏むこともあろう。それこそが「老益」となる「大所高所」からの助言・叱咤激励になる。だから、なにがなんでも賛成とはならず、若者におもねて迎合することもなくなる。

だから、老人も常に学ばなくてはならない。これには若者以上の気力が必要となる。なんせ若者のように体力がないからだ。体力がない分、気力と知力(経験値)で補わなければならない。新しいことに対する「学び」においては若者と同じ一線である。時代の変化のスピードが上がったことで、老人には隠遁として余生を過ごすことが許されなくなった。それまでの経歴に胡座をかいて助言や叱咤激励をしていれば良い時代は過ぎた。老人も若者と同じく第一戦で戦い続けなければならなくなった。

こうした老人であれば、若者はこれを「老害」とは呼ばないであろう。共に戦う仲間である。しかし、老人側から見れば酷な世界である。また、昔ながらの長老や元老を敬うという世界観が崩壊しているから、自分は長老や元老を敬ってきたのに自分の時には長老や元老といった概念が消えているのだから。価値観の変遷に追いつくのも精一杯であるように思う。とはいえ、定年が75歳まで延長されようとし、リカレント(学び直し)学習が実施され始め、「人生100年時代」とばかりにマルチステージ(終身雇用で1つの生き方ではなく、複数の生き方)をせよという時代の要請にあっては、そうならなければ社会的に「老害」になってしまう。

50の手習いではないが、何か新しいものに常に挑戦し続けなくてはならない。さて、問題はその原動力をどこから得てくるかである。これは1人1人に課せられた宿題である。

世代間で継承されていくもの

一昨日の記事昨日の記事は、ともに人物重視についての内容であったが、結局のところ、僕は何が「人物」なのかについて明言していない。当然、どう伸ばすか育てるかという議論も為されていない。今日の記事ではこのあたりについて述べてみたいと思う。

「ありていに言えば」とか「包み隠さずに本音で言えば」という意味で使われている「ぶっちゃけ」という言葉は、2000年代に入ってから頻繁に使われるようになってきた。平成という時代になってからは、「ぶっちゃけ(本音)」てしまうことが誠実であり、美徳になったのであるが、一方でその対極にある「取り繕うこと(建前)」が悪になり、人の気持ちを「忖度」することが悪になったということでもある。

婉曲的で遠回しな表現は迂遠とされ、直接的で露骨な表現のほうが好まれるようになった結果、人の気持ちを察したり、空気を読んだり、行間を読んだり、言葉の発せられた意味を推し量ったりする能力が徐々に失われていった。くだけたカジュアルな表現が好まれ、改まったフォーマルな表現は人々の苦手とするところとなった感がある。改まったフォーマルな表現は物々しく、事務的で冷たい響きすら感じられる表現と認識されるようである。

しかし、少し前なら「KY」、今なら、差別語にたいする配慮が足りないとの批判を承知で敢えて載せるが、「ガイジ」「アスペ」と批判するように、人の気持ちを察せられなかったり、空気を読めなかったりすることへの「抵抗感」は根強く存在しているのである。これは、今でも開会式、閉会式、入学式、卒業式、成人式、結婚式、葬式というように、改まった場が社会から完全には消えていないからであろう。ぶっちゃけた状態だけではダメで、改まった場所がある以上、そこにふさわしいものが必要だということでもある。

改まった場所に共通する言葉は「式」であるが、これは律令制にまで起源を遡る「細則」、つまり実施する上での細かなルールのことを意味する。正式には「律令格式」と言われるもので、おおまかには「律令」は法律、「格式」は実施の際の具体的な判例といったところである。「格」も「式」も細かな取り決めであり、決められたものが共通して彼我に認識されていれば、改まった場所での言動に困ることはない。卒業式で証書は右手から差し出すとか結婚式での三三九度のやり方とか、決まっていれば、あとは流れに沿ってこなすだけである。

そして、問題はここからであるが、実は日常にもそのような「格式」がある。具体的には客先ではチャイムを鳴らす前にコートを脱ぐとか、手土産は個包装のものを選び、かつ日持ちしないものは避けるとか、靴を脱いで玄関先に上がってから体の向きを変えて靴を揃えるとか、好意や物を受け取ったらお礼を言うとか、およそ「式」ではない日常にもマナーというように名を変えた「式」が存在する。こうしたマナーをきちんとこなせる人は育ちが良いと評され、そうでなければ「礼儀がなっていない」と白眼視される。

つまりは、家庭教育である。日常の中に「改まった場」とそうでない場を持っている人こそ、こうした格式、マナー、礼儀を持てるのであり、こうしたものを備えている人が人の気持ちを忖度し、行間を読めるのである。そして、正式なものを知っているからこそ、それを崩したときに親しみを感じたり出来るのである。普段から崩れているのであれば、さらに崩すとなればそれは無礼になるし、場の空気も何もかも壊すことになる。

親しき仲にも礼儀ありと言うが、これは無礼を咎める言葉ではない。偶然に会ったときや手紙や電話などで簡易的に言うとしても、さらに「改めてお礼に伺います」とか「改めてお詫びに伺います」という「礼儀」、改まったものが親しき仲にも必要であるということである。この代表例がお中元やお歳暮である。昔の暦で言えば、半年が区切りである(6月最終日と12月最終日に大祓をする)。その区切りのところで、お世話になった人に「改まって礼をする」習慣がお中元やお歳暮なのである。感謝していることなど知っている、その都度ちゃんと礼を伝えていると考えて疎かにしてはならないという意味である。

蛇足で言えば、年賀状も同じである。年が改まったところで、改めて旧年中の交誼に感謝を伝え、これからもよろしくと挨拶を入れるのである。大晦日から元日へ日が改まったところを境目にして、人々が居住まいを正し、「あけましておめでとう。今年もよろしく」との挨拶を遣り取りすることは、ぶっちゃけていない。また、正式を知るからこそ「あけおめ。ことよろ!」が親しいと認識されるのである。それでも、挨拶をしないということにはなっていない。決まり文句で中身もなく、儀礼的で事務的であるにもかかわらず、形式だから意味がないとはなっていない。これはある意味で元日が1年に1回限りの非日常であるが故に、ぶっちゃけが美徳という風潮の時代においても残っているのかも知れない。

こうしたものは、種々様々な場面で細かくあるわけで、その日常性は枚挙にいとまがないくらいに存在する。これを礼儀作法やマナーの本で学んだところで限界はある。あくまでも一部でしかないし、状況に応じて、相手や場の格や間柄などに応じて、絶妙にアレンジされるものだから、杓子定規にするものでもない。これはもう経験値の領域である。なぜ同じことをするのにAさんちとBさんちとで異なるのかを知ることで伝わっていくものである。

さて、人物論の話をすると始めてまったく無関係な話題が続いたと怪訝な思いをされていると思うが、僕の考えている「人物」は、上述してきたような人間関係の機微を知っている人である。こうしたところは試験で計れるようなものでないが、人物重視をする際には欠かせない要素である。人間は社会的動物であり、集団生活を営む動物であるのだから、その中で「人物たる」とするには、試験で計れるような「能力」だけでは決してない。人たらしと言われた豊臣秀吉田中角栄、そして昨日の松下翁も、こうしたところに機敏であったろうと思う。

そして、こうしたものは書物で学ぶものではなく、日常を共にする先達から細かく、そして口うるさく学ばされるものである。こうした継承を繰り返していくことで、さらに洗練されたものになっていくであろう。マナーは確固とした固定物ではなく、変幻自在に変わるものである。マナーを規格化した時点で、たとえば書物などで規定した時点で、それは場に応じた変化の出来ない固定的なものになってしまう。マナーをゴリ押しすることはマナー違反であるというディレンマを引き起こすだけだ。これが僕が人物試験に反対する理由である。試験にしろ書物にしろ、規定することの限界を知った上で試験や書物を活用する運用をしなくてはならないと思う。

人物試験というナンセンス

昨日の投稿記事に続いて、今日は人物試験なるものについて考えてみたいと思う。

昨日の記事の中で、僕は平成時代に進んだ人物重視傾向の教育および就活(採用)についての流れを説明し、しかし、人物重視ということ自体はエリート層においては戦前からも続くものであると述べた。したがって、大衆教育が成熟し、それを受けて社会に出る学生にも人物が求められること自体は自然な成り行きだと思うし、むしろ、社会の上層部やエリートには、それにふさわしい人格、品位、人付き合いが備わっていて当たり前だと思う。

少し話はずれるが、昔の支配者層や今の社長など、およそ人の上に立つ最上層においては、帝王学なるものが存在し、脈々と受け継がれているものと思うが、これとて「最上層にふさわしい人格、品位、人付き合い」についての教えなのだ。僕のお気に入りの書物、チェスターフィールド卿の『わが息子よ、君はどう生きるか』や、スマイルズの『自助論 』なども、人格、品位、人付き合いについて多くの紙幅を割いている。この2冊については、下の方に詳しいリンクを貼った。

話を戻そう。人物重視というところに賛成ながらも、大学入試や就職採用試験において「人物試験」を採り入れることについては、反対の立場である。というのも、試験というものの性質上、公平性・透明性を期し、その選抜結果については客観的で納得のいくものである必要がある。つまりは、採点表という名の「モノサシ」が必要になってくる。個を重視し、多様性を重視すると言いながら、その実、実施においては画一的で統一的なモノサシを適用することになる。

このモノサシについて、現在、最も広く使われ、採り入れられているものがコンピテンシー型評価である。これはアメリカで開発された指標で、高い業績を収めた人の行動特性を統計的に(つまりは科学的に)弾き出したものである。およそ6項目に分かれ、主体性、実行力、知力、伝達表現力、チームワーク、耐性などから成っている。これを仮想ではなく、過去の実際の実体験を示すことで証明して見せよという形式である。蛇足であるが、これが教育の指導要領に影響を与えているのは明白であろう。

これには3つの問題がある。

1つには、これが大きくビジネス的要素に傾いていることである。きわめて合理的であり、効率的であり、資本主義的である。災害を期に高まった「絆」という意識はチームワークでは語りきれないであろうし、自己犠牲を伴うボランティアは合理的ないし効率的とは思えない。そして、資本主義は崩壊の危機を迎えていると喧伝されている時代なのにもかかわらず、である。アメリカを始めとした右肩上がりの経済に黄色信号がともっている時代背景を無視し、かつての土壌で高い業績を収めた人を一次資料としているのである。

2つめに、この6つの要素から漏れた要素についての扱いが定まっていないことである。極論すれば、試験になってしまえば、試験で問われないものについては努力も対策も為されなくなってしまうという懸念が生じるのである。国語のテストに古文・漢文が出ないとなれば、学校での授業からも古文や漢文が消え去ってしまうのと同じ現象である。また、逆算して、試験項目だけに対策をした偏った人物が出来上がってくることも容易に想像できる。松下幸之助は6項目で大いに点数を取ることが出来るだろうが、松下幸之助の魅力にはそれらだけに止まらない「何か」があり、それが人々を今もなお魅了し続けているのではなかろうかということである。この「何か」の存在はきわめて重要であると思う。

そして、3つめに、誰が採点するのかという問題がある。採点者は少なくとも評価項目についての知見を持っている必要がある。そうでなければ採点し得ない。にもかかわらず、集団討論をしたことのない人が集団討論を評価し、主体的に行動していないマニュアル人間が主体性を評価することが往々にして存在している。ルールもあやふやな野球のド素人に野球の審判をさせるようなものである。そのような人が審判を務める試合がトラブルなく終わるとはとうてい思えない。

こういう理由から、僕は人物重視については賛成だけれども、人物試験には反対なのである。試験において見る「人物」という枠をはめてしまうことで、重視するべき人物そのものが矮小化されていく。試験の性質上、「人物」を定義してしまうことで、本来は多様な拡がり、バラエティの豊かさを持つ柔軟な「人物」が消えてしまう。人物試験においては、多様な人物を画一性・統一性の中に統合してしまうディレンマが存在してしまうのだ。もっと緩やかに人物を見、育てていく必要があると思う。

わが息子よ、君はどう生きるか

わが息子よ、君はどう生きるか

 
スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫

スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫