学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

「老害」を考える

老害」と一発で変換されたことにも驚くが、ウェブでその意味を引くと、「自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪」と出てくる。当初は耳慣れない言葉であったが、その「害悪」が表面化・顕著化するにつれ、おそらくは一般的に広く使われるようになってきたのであろう。そこで今回は「老害」なるものを考えてみようと思う。

当初、僕は老境にさしかかる前に自らは「老害」にはなるまいと意識したことを覚えている。そこで、どうしたらよいかという葛藤が始まったのである。若手を理解せず、その邪魔になることが「老害」とされるならば、若者におもねって若者に賛同し、若者と共に行動していけばいいのだろうか。いや、それでは単に若者に迎合しているだけであって、若者をスポイルして(人間としてダメにして)しまいかねない。時には厳しい助言や指導は必須であろう。憚りながら、そういう職に就いているし、そういう経験も積んできたと自負している。

そこで、考え事の常。反対概念を考えてみる。「老益」である。儒教からの影響により、そもそも長老や元老といった考え方が昔から日本にあるが、これは西洋とて同じである。経験を積み、落ち着き、大局観をもって大所高所より物事を見ることのできる老人は重宝されてきた。これが「上から目線」と批判されることになったのだろうが、おそらくは「上から目線」の中身には、大所高所に含まれている「偏見や私情を捨てた広い視野」が欠けていると判断されたからであろうと思う。

もう一つは、時代の流れが加速し、時代の変化のスピードが飛躍的に上がったからだと思う。「俺が若い頃には…」「俺の時には…」「俺はこうやって来た」というような「経験」が時代の変化の速度に対応し切れていないから、「今はもう違う」とか頑迷な時代懐古に陥っていると判断されるのであろう。こうなれば老人は過去の時代に偏り、偏見の塊となる。だから、今の時代の「害悪」でしかなくなる。

となれば、老人も最先端を学べば良い。最先端を理解するのに過去に築いてきたものと融合させ、それをどう見るか、どう捉えるか、どう判断するかという具合にしていけば良いのだと思う。ただただ最先端をというのではなく、抽象概念で今昔を比較検討し、時にはブレーキをかけることもあろうし、時にはアクセルを踏むこともあろう。それこそが「老益」となる「大所高所」からの助言・叱咤激励になる。だから、なにがなんでも賛成とはならず、若者におもねて迎合することもなくなる。

だから、老人も常に学ばなくてはならない。これには若者以上の気力が必要となる。なんせ若者のように体力がないからだ。体力がない分、気力と知力(経験値)で補わなければならない。新しいことに対する「学び」においては若者と同じ一線である。時代の変化のスピードが上がったことで、老人には隠遁として余生を過ごすことが許されなくなった。それまでの経歴に胡座をかいて助言や叱咤激励をしていれば良い時代は過ぎた。老人も若者と同じく第一戦で戦い続けなければならなくなった。

こうした老人であれば、若者はこれを「老害」とは呼ばないであろう。共に戦う仲間である。しかし、老人側から見れば酷な世界である。また、昔ながらの長老や元老を敬うという世界観が崩壊しているから、自分は長老や元老を敬ってきたのに自分の時には長老や元老といった概念が消えているのだから。価値観の変遷に追いつくのも精一杯であるように思う。とはいえ、定年が75歳まで延長されようとし、リカレント(学び直し)学習が実施され始め、「人生100年時代」とばかりにマルチステージ(終身雇用で1つの生き方ではなく、複数の生き方)をせよという時代の要請にあっては、そうならなければ社会的に「老害」になってしまう。

50の手習いではないが、何か新しいものに常に挑戦し続けなくてはならない。さて、問題はその原動力をどこから得てくるかである。これは1人1人に課せられた宿題である。

世代間で継承されていくもの

一昨日の記事昨日の記事は、ともに人物重視についての内容であったが、結局のところ、僕は何が「人物」なのかについて明言していない。当然、どう伸ばすか育てるかという議論も為されていない。今日の記事ではこのあたりについて述べてみたいと思う。

「ありていに言えば」とか「包み隠さずに本音で言えば」という意味で使われている「ぶっちゃけ」という言葉は、2000年代に入ってから頻繁に使われるようになってきた。平成という時代になってからは、「ぶっちゃけ(本音)」てしまうことが誠実であり、美徳になったのであるが、一方でその対極にある「取り繕うこと(建前)」が悪になり、人の気持ちを「忖度」することが悪になったということでもある。

婉曲的で遠回しな表現は迂遠とされ、直接的で露骨な表現のほうが好まれるようになった結果、人の気持ちを察したり、空気を読んだり、行間を読んだり、言葉の発せられた意味を推し量ったりする能力が徐々に失われていった。くだけたカジュアルな表現が好まれ、改まったフォーマルな表現は人々の苦手とするところとなった感がある。改まったフォーマルな表現は物々しく、事務的で冷たい響きすら感じられる表現と認識されるようである。

しかし、少し前なら「KY」、今なら、差別語にたいする配慮が足りないとの批判を承知で敢えて載せるが、「ガイジ」「アスペ」と批判するように、人の気持ちを察せられなかったり、空気を読めなかったりすることへの「抵抗感」は根強く存在しているのである。これは、今でも開会式、閉会式、入学式、卒業式、成人式、結婚式、葬式というように、改まった場が社会から完全には消えていないからであろう。ぶっちゃけた状態だけではダメで、改まった場所がある以上、そこにふさわしいものが必要だということでもある。

改まった場所に共通する言葉は「式」であるが、これは律令制にまで起源を遡る「細則」、つまり実施する上での細かなルールのことを意味する。正式には「律令格式」と言われるもので、おおまかには「律令」は法律、「格式」は実施の際の具体的な判例といったところである。「格」も「式」も細かな取り決めであり、決められたものが共通して彼我に認識されていれば、改まった場所での言動に困ることはない。卒業式で証書は右手から差し出すとか結婚式での三三九度のやり方とか、決まっていれば、あとは流れに沿ってこなすだけである。

そして、問題はここからであるが、実は日常にもそのような「格式」がある。具体的には客先ではチャイムを鳴らす前にコートを脱ぐとか、手土産は個包装のものを選び、かつ日持ちしないものは避けるとか、靴を脱いで玄関先に上がってから体の向きを変えて靴を揃えるとか、好意や物を受け取ったらお礼を言うとか、およそ「式」ではない日常にもマナーというように名を変えた「式」が存在する。こうしたマナーをきちんとこなせる人は育ちが良いと評され、そうでなければ「礼儀がなっていない」と白眼視される。

つまりは、家庭教育である。日常の中に「改まった場」とそうでない場を持っている人こそ、こうした格式、マナー、礼儀を持てるのであり、こうしたものを備えている人が人の気持ちを忖度し、行間を読めるのである。そして、正式なものを知っているからこそ、それを崩したときに親しみを感じたり出来るのである。普段から崩れているのであれば、さらに崩すとなればそれは無礼になるし、場の空気も何もかも壊すことになる。

親しき仲にも礼儀ありと言うが、これは無礼を咎める言葉ではない。偶然に会ったときや手紙や電話などで簡易的に言うとしても、さらに「改めてお礼に伺います」とか「改めてお詫びに伺います」という「礼儀」、改まったものが親しき仲にも必要であるということである。この代表例がお中元やお歳暮である。昔の暦で言えば、半年が区切りである(6月最終日と12月最終日に大祓をする)。その区切りのところで、お世話になった人に「改まって礼をする」習慣がお中元やお歳暮なのである。感謝していることなど知っている、その都度ちゃんと礼を伝えていると考えて疎かにしてはならないという意味である。

蛇足で言えば、年賀状も同じである。年が改まったところで、改めて旧年中の交誼に感謝を伝え、これからもよろしくと挨拶を入れるのである。大晦日から元日へ日が改まったところを境目にして、人々が居住まいを正し、「あけましておめでとう。今年もよろしく」との挨拶を遣り取りすることは、ぶっちゃけていない。また、正式を知るからこそ「あけおめ。ことよろ!」が親しいと認識されるのである。それでも、挨拶をしないということにはなっていない。決まり文句で中身もなく、儀礼的で事務的であるにもかかわらず、形式だから意味がないとはなっていない。これはある意味で元日が1年に1回限りの非日常であるが故に、ぶっちゃけが美徳という風潮の時代においても残っているのかも知れない。

こうしたものは、種々様々な場面で細かくあるわけで、その日常性は枚挙にいとまがないくらいに存在する。これを礼儀作法やマナーの本で学んだところで限界はある。あくまでも一部でしかないし、状況に応じて、相手や場の格や間柄などに応じて、絶妙にアレンジされるものだから、杓子定規にするものでもない。これはもう経験値の領域である。なぜ同じことをするのにAさんちとBさんちとで異なるのかを知ることで伝わっていくものである。

さて、人物論の話をすると始めてまったく無関係な話題が続いたと怪訝な思いをされていると思うが、僕の考えている「人物」は、上述してきたような人間関係の機微を知っている人である。こうしたところは試験で計れるようなものでないが、人物重視をする際には欠かせない要素である。人間は社会的動物であり、集団生活を営む動物であるのだから、その中で「人物たる」とするには、試験で計れるような「能力」だけでは決してない。人たらしと言われた豊臣秀吉田中角栄、そして昨日の松下翁も、こうしたところに機敏であったろうと思う。

そして、こうしたものは書物で学ぶものではなく、日常を共にする先達から細かく、そして口うるさく学ばされるものである。こうした継承を繰り返していくことで、さらに洗練されたものになっていくであろう。マナーは確固とした固定物ではなく、変幻自在に変わるものである。マナーを規格化した時点で、たとえば書物などで規定した時点で、それは場に応じた変化の出来ない固定的なものになってしまう。マナーをゴリ押しすることはマナー違反であるというディレンマを引き起こすだけだ。これが僕が人物試験に反対する理由である。試験にしろ書物にしろ、規定することの限界を知った上で試験や書物を活用する運用をしなくてはならないと思う。

人物試験というナンセンス

昨日の投稿記事に続いて、今日は人物試験なるものについて考えてみたいと思う。

昨日の記事の中で、僕は平成時代に進んだ人物重視傾向の教育および就活(採用)についての流れを説明し、しかし、人物重視ということ自体はエリート層においては戦前からも続くものであると述べた。したがって、大衆教育が成熟し、それを受けて社会に出る学生にも人物が求められること自体は自然な成り行きだと思うし、むしろ、社会の上層部やエリートには、それにふさわしい人格、品位、人付き合いが備わっていて当たり前だと思う。

少し話はずれるが、昔の支配者層や今の社長など、およそ人の上に立つ最上層においては、帝王学なるものが存在し、脈々と受け継がれているものと思うが、これとて「最上層にふさわしい人格、品位、人付き合い」についての教えなのだ。僕のお気に入りの書物、チェスターフィールド卿の『わが息子よ、君はどう生きるか』や、スマイルズの『自助論 』なども、人格、品位、人付き合いについて多くの紙幅を割いている。この2冊については、下の方に詳しいリンクを貼った。

話を戻そう。人物重視というところに賛成ながらも、大学入試や就職採用試験において「人物試験」を採り入れることについては、反対の立場である。というのも、試験というものの性質上、公平性・透明性を期し、その選抜結果については客観的で納得のいくものである必要がある。つまりは、採点表という名の「モノサシ」が必要になってくる。個を重視し、多様性を重視すると言いながら、その実、実施においては画一的で統一的なモノサシを適用することになる。

このモノサシについて、現在、最も広く使われ、採り入れられているものがコンピテンシー型評価である。これはアメリカで開発された指標で、高い業績を収めた人の行動特性を統計的に(つまりは科学的に)弾き出したものである。およそ6項目に分かれ、主体性、実行力、知力、伝達表現力、チームワーク、耐性などから成っている。これを仮想ではなく、過去の実際の実体験を示すことで証明して見せよという形式である。蛇足であるが、これが教育の指導要領に影響を与えているのは明白であろう。

これには3つの問題がある。

1つには、これが大きくビジネス的要素に傾いていることである。きわめて合理的であり、効率的であり、資本主義的である。災害を期に高まった「絆」という意識はチームワークでは語りきれないであろうし、自己犠牲を伴うボランティアは合理的ないし効率的とは思えない。そして、資本主義は崩壊の危機を迎えていると喧伝されている時代なのにもかかわらず、である。アメリカを始めとした右肩上がりの経済に黄色信号がともっている時代背景を無視し、かつての土壌で高い業績を収めた人を一次資料としているのである。

2つめに、この6つの要素から漏れた要素についての扱いが定まっていないことである。極論すれば、試験になってしまえば、試験で問われないものについては努力も対策も為されなくなってしまうという懸念が生じるのである。国語のテストに古文・漢文が出ないとなれば、学校での授業からも古文や漢文が消え去ってしまうのと同じ現象である。また、逆算して、試験項目だけに対策をした偏った人物が出来上がってくることも容易に想像できる。松下幸之助は6項目で大いに点数を取ることが出来るだろうが、松下幸之助の魅力にはそれらだけに止まらない「何か」があり、それが人々を今もなお魅了し続けているのではなかろうかということである。この「何か」の存在はきわめて重要であると思う。

そして、3つめに、誰が採点するのかという問題がある。採点者は少なくとも評価項目についての知見を持っている必要がある。そうでなければ採点し得ない。にもかかわらず、集団討論をしたことのない人が集団討論を評価し、主体的に行動していないマニュアル人間が主体性を評価することが往々にして存在している。ルールもあやふやな野球のド素人に野球の審判をさせるようなものである。そのような人が審判を務める試合がトラブルなく終わるとはとうてい思えない。

こういう理由から、僕は人物重視については賛成だけれども、人物試験には反対なのである。試験において見る「人物」という枠をはめてしまうことで、重視するべき人物そのものが矮小化されていく。試験の性質上、「人物」を定義してしまうことで、本来は多様な拡がり、バラエティの豊かさを持つ柔軟な「人物」が消えてしまう。人物試験においては、多様な人物を画一性・統一性の中に統合してしまうディレンマが存在してしまうのだ。もっと緩やかに人物を見、育てていく必要があると思う。

わが息子よ、君はどう生きるか

わが息子よ、君はどう生きるか

 
スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫

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新しい時代へ

新年、あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします。

「平成最後の~」というフレーズ、ほんと、メディアは好きですね。この数週間で何度聞いたことか。ちなみに、通常時であれば、メディアは「初の~」が好きですね。ひどい時には「※※を除けばこれが初めて」とか、初回に何か特別な条件を設定して、その設定外では初めてであるとの報道が為される。ということで、今年初めての投稿にまいります。

平成の30年間を振り返る番組が相次ぎましたが、それを見ていて、「失われた10年」と「ロストジェネレーション」からの「失われた20年」へと経済的停滞を経験したことが想起された。これに関連して、2002年~2010年までの「ゆとり教育」や2011年以降の「脱ゆとり教育」に至るまでの個の尊重と多様性の尊重という教育方針に眼が転じた。

いわゆる「詰め込み教育」と言われた知識偏重型が改められ、調べ学習などの能動的で発信型の教育が推進された。この方向性は間違っていないが、OECD学力調査などで学力の低下が顕著に見られ、理念の実現手段に問題があるとされ、削られた学習時間の一部が戻りつつ、「生きる力」を養うと似たような方向性で「脱ゆとり教育」が再出発した。

そして、「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が企図された新指導要領が、中学校では2021年度から、高等学校では2022年度から実施される予定である(一部は、たとえば高等学校で今年から前倒し実施もある)。アクティブ・ラーニングもプログラミングも、21世紀という新しい時代を「生きる力」であるとされている。

では、2002年よりも前の時代は何だったのか。経済的にはバブル崩壊、政治的には冷戦の終結という分水嶺によって区切られる時代であるが、教育方針で見れば、それは画一的で考えることを要しない時代であったと判断できよう。すなわち、大量生産をする工場労働者、そして大量消費という同指向的な購買意欲を持つ大衆である。マニュアルに沿って規則正しく正確に作業が出来るように教育し、大衆車に始まって高級車へ、賃貸アパートから始まって一軒家へというような上昇志向的消費行動をする画一的価値観を共有する大衆の創出である。

これは、経済的には高度経済成長から続く緩やかな右肩上がりの経済と、政治的には東西イデオロギー対立による行動の選択肢が限定された(つまりは考えなくてもよい)社会の2つに支えられていた。この2つの支柱を1990年頃に失い、そこから新たな時代を迎えたのである。その世界は画一性から脱却した多様性に富む社会であった。つまりは、自由な世界の出現である。

自由というものは、しかし同時に厄介なもので、個々人がそれぞれの価値観で振る舞うし、また個々人がそれぞれ状況を把握して行動を選択していく必要が出てくる。だから能動的で発信できる人材が必要になってくるわけだが、個の尊重と多様性への対応から、集合的な社会を維持するために「主体的で対話的」な項目を追加することになった。これが学習指導要領の変遷の背景であると思う。

もちろん、社会人のほうもこれと無縁ではなく、こうした社会的変遷を受けて、公務員にも社員にも、いわゆる「人物重視」なる採用試験が定着してくるのである。前例を踏襲して何も考えなくても人口が増加する時代または業績が伸びていく時代が終わったからである。能動的・主体的に考え、取り組み、発信していく人材がなければ、大企業といえども破綻していく時代になったのである。考えなくてもできるマニュアル仕事はAIにどんどん奪われていくから、労働者の側も勤め先のことを自分のこととして捉え、AIにできないことを提供していかなければならない時代となった。

とはいえ、これは昔からあったことで、目新しいことではない。いわゆる「エリート(層)教育」は昔から人物重視教育であったし、考えられる人間の育成であった。たとえば、江戸時代までの家業を継いでいく、いわば考えなくてもよい状態から、明治維新職業選択の自由へと舵を切ったときのことを考えれば自明である。明治維新を支えたエリートたちは画一的で考えなくても済むような人々ではなかった。今日の投稿記事の内容は「大衆教育」について言えることなのである。大衆教育が「読み・書き・そろばん」という基礎を終え、徐々に大衆教育がエリート教育に近づいていっているのである。

落ち着いて考えてみれば、今日の大衆教育を受けた人物は、江戸時代や明治初期の頃でいえば、かなりのエリートである。当時の人々が歴史や国語古典、数学、生物、化学などの現代大衆教育の教科書知識を持っていただろうかと問えば自明であろう。つまりは、エリート層教育の実践がいよいよ大衆レベルまでになったということを意味している。あるいはエリートが大衆といえるまでに増殖したと表現することも出来るだろう。

だから、最先端の「新しい時代を生きる力」を構成する「対話を通じて多角的に考え、能動的・主体的に行動し、発信していく力」は、過去を見ればいくらでもサンプルが存在している。近年の人物重視の傾向は今に始まったことではない。そして、人が人たる所以、「一角の人物」と目されるような状態を作り上げることこそ、これからの新しい時代で活躍する要であるのだ。これこそAIになしえないところである。マニュアル行動ではなく、鍛え上げた精神を備えなくてはならない。

こういう1年にしていきたいと願う。といったところで、今年の抱負ですね。今回の投稿をしていて、1つ、気になったところが出てきたので、それはまた次回のお披露目ということで。

一年を振り返って

今日、本棚の整理をした。今年一年で読んだ本は32冊(小説の38冊と併せるとちょうど70冊になる)。ペースは学生時代に比べて落ちたとはいえ、まだまだ読んでいるものだと感じていたんですが、今日の整理を通じて発見がありました。

ハードカバーの本は7冊だけ。残りはすべて新書版だった。新書版は専門家が一般向けに内容を噛み砕いて書いたもの。つまりは自分の専門外の本ばかりを読んでいたことになる。これは少し悲しいなぁと感じた。

ジャンルとしてはファシリテーション、思考法、哲学、時事問題に関するものが多かった。つまりはお仕事に必要なものを読んでいたことになる。これはこれで仕方のないことなのかもしれない。しかし、来年は自分の専攻分野の専門書をもっと読むように心懸けたい。

単純計算してみたくなった。

小学生の頃は、年間24冊×6年=144冊

中高生の頃は、年間36冊×6年=216冊

大学生の頃は、年間36冊×4年=144冊

修博士の頃は、年間70冊×6年=420冊

社会人以降は、年間40冊×17年=680冊

合計でざっと1600冊ほど読んできた計算になる。この冊数の中には、小説も文庫も新書も専門書も洋書も含まれる。1週間に1~3冊程度は読んできたことになる。これも単純計算だが、一冊あたり1500円程度にすると240万円も本に注ぎ込んできたことになる。もっとも、2/3程度は図書館を利用しているので、実際には100万円程度だろう(洋書はほぼ自分で買ったし、洋書は高いので割り算の答えにちょっと色をつけた)。

こうしてみると、やはり知識の獲得(読書)は財産である。これからも知識の獲得に努めていこうと思う。

ところで、僕は小説からも大いに知識を得てきたと思う。京極夏彦の妖怪シリーズでは民俗学的で心理学的、時に衒学的な知識を大いに楽しんだ。学術的な論理性と対になる人間の不合理な側面を描き出す小説に触れることは、精神のバランスを取る上で重要であったように思う。逆に、森博嗣のS&MシリーズやVシリーズは、学問的な論理性を日常に存在させると日常が破綻する様をユーモアたっぷりに描いているから好きだ。

また、上田秀人氏の水城聡四郎シリーズ(勘定吟味役異聞広敷用人 大奥記録聡四郎巡検)は、幕府(政府)や将軍プライベートの内実、当時の地方の状態などを知れて面白い。同様に財政の側面から幕府の権謀術数を描く『奥右筆秘帳』、朝廷と幕府、とりわけ公家の生態を描いた『禁裏付雅帳』、肚の読み合いが秀逸な『百万石の留守居』、江戸の経済感覚が垣間見られる『日雇い浪人生活録』など、面白いものが目白押しである。他にも、出世を嫌う主人公が権力の中枢に引きずり込まれる『表御番医師診療禄』や将軍の苦悩と孤独を描いた『お髷番承り候』は息抜きにちょうど良かった。

上田秀人氏の作品は、どの作品も、時代小説でありながら現代社会批判であり、役人の生態や習性を描き、権力構造を鋭く描き、主人公の成長と変化を感じさせてくれる。だから、けっして単純なエンターテイメント時代劇ではない。また、史実に対する虚構の作り上げ方も意外性があって面白い。よくもまぁ辻褄を合わせられるものだと、いつも感心している。彼が歯医者の副業として、これだけ多くの小説を書いていることに、二度驚かされる。

さて、来年はどんな作品に出会えるのか、また本屋の平棚を物色しに行こうと思う。も、もちろん、ハードカバーの本も来年は多く読みますよ!

「教養」とは何か

歳末になると、「教養」を特集に取り扱った雑誌などが増えてくる。「教養」を広く浅く解説したり、入門となる書籍を紹介したりといった具合である。長期休暇を前に一念発起する人が多いのだろう。しかし、なぜ「教養」を身に付けることを人々は求めるのだろうか。ここで「ただなんとなく」とか「特集が組まれているから」と取り組んでいる場合には、「教養」は身に付かないだろう。

「教養」というものは、物事を比較相対化する視点を提供してくれる。つまり、「教養」は「当たり前のこと」や「常識」を打破する視点を提供してくれるものである。ここで注意しておきたいことは、なんでもかんでも疑えということではない。そんなことをしていたら日常生活で疲れてしまうだろう。世の中には「疑ってもいい常識」と「見逃すべき常識」とがある。この境目を明らかにしてくれるものが「教養」の力なのだ。

どういうことかというと、「見逃すべき常識」とは普遍性が高く、おそらくは時代や空間に支配されずに存在しうるものだ。一方で、「疑うべき常識」とは「今ココ」でしか通用しないような普遍性の低い、時代や空間に支配されているものである。すなわち、「教養」とは時代の把握や空間の把握を多く積み重ねることを指す。歴史を知るものは現代の特殊性を見いだし、西洋を知るものは東洋の特殊性を見いだすということに他ならない。東洋しか知らなければ東洋での「当たり前」や「常識」を疑い得ず、現代しか知らなければ現代の「当たり前」や「常識」を疑うことも出来ない。

さらに言えば、単に「常識を疑え」というような抽象的表現に踊らされ、なんでもかんでも疑いを持ち始めるようであるならば、そこには「教養」がない。疑うには、「当たり前」や「常識」にはかなり強い慣性があることを知り、それらがなぜ根強く生き残っているかについての深い洞察がなければならない。この問いを煮詰める際にも、やはり時代的な、そして空間的な知識の拡がりが必須となる。そうして初めて、普遍性の低いものであるかどうかが判明する。

では、なぜ「教養」を持ち、「当たり前」や「常識」が持つ普遍性の高低を見極める必要があるのだろうか。それは、今この世界が変動期を迎えているからに他ならない。AI や IoT が登場し、働き方が問われ、大災害や戦争などの特殊事情を除いては増加を続けてきた人口が減り始め、民主主義の危機だとか資本主義の終わりだとかが声高に叫ばれるようになった。既存の制度やシステムが機能不全に陥り、環境が激変している今、従来路線にある大企業が苦戦し、ベンチャー企業が闊歩する時代になっている。

こうした時には、イノベーションが必要である。イノベーションは単なる改善策や改革案ではない。それまでの「当たり前」や「常識」を覆して達成されるものである。日本語で「革新」とか「刷新」と訳されるイノベーションには「新しい」要素が含まれている。そこに「革(剥ぎ取ってあらたまる)」や「刷(擦り剥ぐ)」があるということは、「それまでにない」という意味である。江戸から明治へと至るのと同じような激変に現代社会は直面している。

だからこそ、教育界でも「アクティブ・ラーニング」が注目を浴び、「考える教育」が求められ、そうした人材を生み出そうとしている。ビジネスで注目を浴びているファシリテーションは、アイディア出しや創造性の創出のためのツールであるが、その前に基盤たる「能動的な学び(アクティブ・ラーニング)」があり、「考える教育」があるのである。学校教育に基盤があり、その先のビジネスでファシリテーションがあるという順序は間違えていないが、今のビジネスマンには、そうした学校教育がないのだから、今のビジネスマンも学生と同じく基盤整備にまずは精を出すべきだろう。かつてない新しいものに挑むわけなのだから、学生もビジネスマンも一様に初学者である。

ここで冒頭の問いに戻ろう。なぜ「教養」を身に付けることを人々は求めるのだろうかという問いである。答えは、イノベーションが必要だから、である。イノベーションのためには「当たり前」や「常識」を疑う必要があり、どれを疑い、どれを疑わずに済ませるかの選別眼を「教養」が提供してくれるからである。これを意識しない「教養」は現代の「教養」の体を為さない。

最後に補足であるが、イノベーションはすべからく「社会的課題」に対処するものである。既存の制度やシステムの崩壊、情報化社会の到来、人口減少問題など、なにかしらの「社会的課題」を解決するものでなければイノベーションは達成され得ないであろう。こうした「社会的課題」を嗅ぎ分け、見つけ出してくるのにも、「教養」は必須である。なぜなら、「現代的」課題であり、一部は「日本的」課題である以上、対象を相対化して比較可能にさせるものは、やはり「教養」だからである。

文章は書くのではなく書かれるものである

聞いた話で恐縮だが、英国の幼稚園で騒いでいた園児を静かにさせようと、若い先生が「静かにしなさい!」と叫ぶ。すると、園児たちはそれに負けないくらい大きな声になって騒いだ。そこにベテランの先生が現れ、園児たちに向かって「レイディーズ・アンド・ジェントルメン!」と呼び掛けたら園児たちは一瞬で静かになったという。

似たような話は日本にもある。「静かにしなさい!」と大きな声で言えばさらに大きな声を出して園児たちは騒ぎ続ける。先生と園児たちの双方の大きな声で教室はカオスに包まれる。そこで一工夫。ある先生が「顔をこっちに向けて!」と言う。みんなの顔が揃うまで声をかける。園児は何事かと目を向ける。そして「お手々は体の横!」と次の指示を出し、みんなの手が体の横に付いたら最後に「お口はチャーック!」と言う。すると園児たちは静かになったという。

この話は何かと言えば、「静かにする」という抽象的な表現に対する園児たちの理解が及ばなかった例である。英国の園児にとって紳士淑女の振る舞いは具体的なものとして把握されている。日本の園児にとっても、顔を向ける、手を体の横につける、口を閉じるという指示は具体的なものとして把握されているということだ。

理解は概念がきちんと把握されることで成立するものである。そして、行動は理解が及んでから成立するものである。概念なき理解はなく、理解なき行動はない。これは一連の動作である。「概念→理解→行動」である。概念と理解は精神の働きであり、目に見えるものではないから、心理学などは表象に生じた行動から精神の働きを見ようとする。つまり、心理学は矢印を逆方向に辿る特殊な行程である。とはいえ、精神の働きは日常では無意識の領域にあり、それを探るとなると本人でもよく分からないというのが普通であろう。

だから、これを解き明かしていくと「分かった!」となるし、事件などで動機を探るのが必要なのも、この「分かった!」を求めてのことである。猟奇的な事件が訳も分からないままに起きたというよりも、異常な精神状態ではあっても犯人なりの道筋が立っていれば気持ち悪さや薄気味悪さは半減する。逆に分からないままであれば気持ち悪さや薄気味悪さは増幅する。

おおよそアウトプットするということは、他者にとって不明な部分を明快に説明しうるということであって、それが口頭であろうと文面であろうと同じである。ただ、口頭での場合には相手の表情を見ながら情報を小出しにして説明を省略しうる。しかし、文面の場合には、予め相手の理解が及ばないところを補わなければならない。冒頭の例を引き合いに出せば、園児に向かって「静謐を保て!」という指示は、園児という対象を見失っているナンセンスな指示である。ここまで極論を言えば納得するものを、「静かにして」が通じないことは意外と気がつかない。

これは、自分が「静かにする」ということを日常語で誰にでも通用する言葉と認識しているから起きることである。つまり、その言葉の伝達先を考えているのではなく、その言葉の発信元を考えているのである。これでは「分かりにくさ」を生んでしまう。「静か」というのがどういう状態で、その状態のことを園児にどう伝えようかと考えれば、自ずと答えに達するというものである。つまり、「自分の理解→概念化→相手の理解→伝達」という流れを踏む必要があるということだ。

ここで冒頭で登場した日本の先生の話に戻る。その先生にとって「静か」とは単に音がしないという状態ではなく、動きのない状態で、かつ、先生のほうへ意識・注意を向けるという状態を意味していたと考えられる。音は立てないがそっぽを向いていたり、あるいは絵本を読んでいたり折り紙を折っていたりするような「静かな状態」は、先生が求めていた「静かな状態」ではないだろう。「静かにする」という日常の簡単な言葉であっても、異なる状態が存在するのである。「静かにしなさい」と呼び掛けて園児たちがそれぞれ本を読み始めたり寝始めたりしたら、先生は再び怒りの青筋を立てることになるのが容易に想像できるが、これは先生のほうのミスである。

ここでようやく今回の記事のタイトルであるが、「文章を書く」ということは、自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化し、その概念を読ませる相手を考えて再び具体化するということである。どんなメッセージを伝えたいのか、その文章を読む相手はどのような思想や考え方をもっているのか、その文章を読んだ相手がどのようなイメージを抱くのか、そうしたことを考えて「文章は書かれる」のである。だから、書く前の推敲が大事になってくる。

最後に、「書く文章」が存在していることにも触れておこうと思う。ズバリ、日記である。これは垂れ流しでかまわない。日記の効用は、ある程度の日付が過ぎれば、自分というものが見えてくることにある。あるいは、自分を振り返る材料になる。日記は「読んでもらう」ことを想定していない特殊な文章であるから、「書かれる」必要性もない。読者は書いた本人であるから、概念のズレも気にしなくて良い。

もっとも、そうしたアウトプットは好き勝手に書くものであり、無自覚的であるがゆえに、自分の無意識を知る手段にもなり得る。文章が書かれる際に、最初にするべき推敲は「自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化すること」であるから、ここの作業と非常に似通っている。就職活動でも最初に来るべきものが業界研究や会社研究ではなく、自己分析である理屈と同じである。