学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

文章は書くのではなく書かれるものである

聞いた話で恐縮だが、英国の幼稚園で騒いでいた園児を静かにさせようと、若い先生が「静かにしなさい!」と叫ぶ。すると、園児たちはそれに負けないくらい大きな声になって騒いだ。そこにベテランの先生が現れ、園児たちに向かって「レイディーズ・アンド・ジェントルメン!」と呼び掛けたら園児たちは一瞬で静かになったという。

似たような話は日本にもある。「静かにしなさい!」と大きな声で言えばさらに大きな声を出して園児たちは騒ぎ続ける。先生と園児たちの双方の大きな声で教室はカオスに包まれる。そこで一工夫。ある先生が「顔をこっちに向けて!」と言う。みんなの顔が揃うまで声をかける。園児は何事かと目を向ける。そして「お手々は体の横!」と次の指示を出し、みんなの手が体の横に付いたら最後に「お口はチャーック!」と言う。すると園児たちは静かになったという。

この話は何かと言えば、「静かにする」という抽象的な表現に対する園児たちの理解が及ばなかった例である。英国の園児にとって紳士淑女の振る舞いは具体的なものとして把握されている。日本の園児にとっても、顔を向ける、手を体の横につける、口を閉じるという指示は具体的なものとして把握されているということだ。

理解は概念がきちんと把握されることで成立するものである。そして、行動は理解が及んでから成立するものである。概念なき理解はなく、理解なき行動はない。これは一連の動作である。「概念→理解→行動」である。概念と理解は精神の働きであり、目に見えるものではないから、心理学などは表象に生じた行動から精神の働きを見ようとする。つまり、心理学は矢印を逆方向に辿る特殊な行程である。とはいえ、精神の働きは日常では無意識の領域にあり、それを探るとなると本人でもよく分からないというのが普通であろう。

だから、これを解き明かしていくと「分かった!」となるし、事件などで動機を探るのが必要なのも、この「分かった!」を求めてのことである。猟奇的な事件が訳も分からないままに起きたというよりも、異常な精神状態ではあっても犯人なりの道筋が立っていれば気持ち悪さや薄気味悪さは半減する。逆に分からないままであれば気持ち悪さや薄気味悪さは増幅する。

おおよそアウトプットするということは、他者にとって不明な部分を明快に説明しうるということであって、それが口頭であろうと文面であろうと同じである。ただ、口頭での場合には相手の表情を見ながら情報を小出しにして説明を省略しうる。しかし、文面の場合には、予め相手の理解が及ばないところを補わなければならない。冒頭の例を引き合いに出せば、園児に向かって「静謐を保て!」という指示は、園児という対象を見失っているナンセンスな指示である。ここまで極論を言えば納得するものを、「静かにして」が通じないことは意外と気がつかない。

これは、自分が「静かにする」ということを日常語で誰にでも通用する言葉と認識しているから起きることである。つまり、その言葉の伝達先を考えているのではなく、その言葉の発信元を考えているのである。これでは「分かりにくさ」を生んでしまう。「静か」というのがどういう状態で、その状態のことを園児にどう伝えようかと考えれば、自ずと答えに達するというものである。つまり、「自分の理解→概念化→相手の理解→伝達」という流れを踏む必要があるということだ。

ここで冒頭で登場した日本の先生の話に戻る。その先生にとって「静か」とは単に音がしないという状態ではなく、動きのない状態で、かつ、先生のほうへ意識・注意を向けるという状態を意味していたと考えられる。音は立てないがそっぽを向いていたり、あるいは絵本を読んでいたり折り紙を折っていたりするような「静かな状態」は、先生が求めていた「静かな状態」ではないだろう。「静かにする」という日常の簡単な言葉であっても、異なる状態が存在するのである。「静かにしなさい」と呼び掛けて園児たちがそれぞれ本を読み始めたり寝始めたりしたら、先生は再び怒りの青筋を立てることになるのが容易に想像できるが、これは先生のほうのミスである。

ここでようやく今回の記事のタイトルであるが、「文章を書く」ということは、自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化し、その概念を読ませる相手を考えて再び具体化するということである。どんなメッセージを伝えたいのか、その文章を読む相手はどのような思想や考え方をもっているのか、その文章を読んだ相手がどのようなイメージを抱くのか、そうしたことを考えて「文章は書かれる」のである。だから、書く前の推敲が大事になってくる。

最後に、「書く文章」が存在していることにも触れておこうと思う。ズバリ、日記である。これは垂れ流しでかまわない。日記の効用は、ある程度の日付が過ぎれば、自分というものが見えてくることにある。あるいは、自分を振り返る材料になる。日記は「読んでもらう」ことを想定していない特殊な文章であるから、「書かれる」必要性もない。読者は書いた本人であるから、概念のズレも気にしなくて良い。

もっとも、そうしたアウトプットは好き勝手に書くものであり、無自覚的であるがゆえに、自分の無意識を知る手段にもなり得る。文章が書かれる際に、最初にするべき推敲は「自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化すること」であるから、ここの作業と非常に似通っている。就職活動でも最初に来るべきものが業界研究や会社研究ではなく、自己分析である理屈と同じである。

トップに必要なものは何か

とあるブログで紹介された。そこでは「トップの仕事は総称して判断。判断とは全知識の総体」とあったので、今回はそれについて考察してみたい。

判断力というのは、哲学的には「特殊を普遍のもとに関係づける能力。普遍が与えられていて、それに特殊を包摂する規定的判断力と、与えられている特殊に対して、それを包摂するための普遍を求める反省的判断力とに区別されている」(カント)となってる。例によって哲学は難解ですね。誤解を恐れずにまとめてしまえば、個別の出来事を一般論に当てはめる能力だということです。これを演繹でやる(一般論から始めて個別事象を理解する)か、帰納でやる(多くの個別事象から始めて一般論に収束する)かの問題ですね。

おおよそ、判断なんてものは、①多くの経験を積んで知識を蓄え、こうすれば未知のXもうまくいくと思うか、②理論書を読んで知識を蓄え、こうすれば未知のXもうまくいくと思うかの2種類しかないわけです。ここに共通するのは、「知識」です。その知識を多くの個別事象から得るか、理屈から得るかの違いです。前者のタイプの経営者を「叩き上げ」と表現しますね。後者のタイプは、MBAなどを取得して経営参画する人のことです。

しかし、「判断を下す」となると、上記のような類型では説明できないように思います。つまり、判断が正しかったかどうかは、結果論です。判断を下した時点では未知なるものはあくまでも未知なんです。もちろん、嗅覚の鋭い人であれば、失敗が少ないでしょうが、それでも博打の要素はあるわけです。「判断」には必ずこれでいこう、これでやってしまおうという思い切り、すなわち「決断」が伴います。判断だけして決断をしないのであれば、それは批評家やコンサルタントであり、経営者やリーダーではないでしょう。

そこで、「判断」と「決断」を考察しなければならないわけですが、「判断」には上述したように豊富な知識が必要です。どのようにそれらを得たかは問題ではありません。むしろ、経験と書物からバランスよく得ることが最善だとは思います。その上で、必要なものは「冷静さ」です。これには、感情に左右されないとか公平に物事を見られるといった要素が絡みます。一時の激情に流されることなく、また、自分の意見よりも優れた他人の意見を摂取できる能力ですね。

そして、「決断」においては、楽天家であることが必要でしょう。失敗してもクヨクヨしない。これは言い換えれば、人間に完璧はないのだから完璧を求めても仕方なく、失敗したら失敗したで次を考えようと思える精神力のことです。この意味では、結果に固執することなく、さっぱりと割り切っている人だとも言えます。自らの判断に自信を持ち、清水の舞台から飛び降りる覚悟を決められる能力と言えます。僕自身は心配性ですから、この要素に欠けます。参謀は出来ても経営者・リーダーは務まりません。

さて、そろそろ結論へと進みましょう。

僕はトップの仕事とは「決断力」と思います。「判断」は有能な分析家に任せればいいんです。機を見るに敏、嗅覚鋭く、あまり分析や思考を重ねることなく直感で「今これ!」と思い切れる有能な経営者・リーダーの存在があるからです。とはいえ、こうした経営者・リーダーは一代限り、または一発屋で終わることも多いですよね。やはり経営・運営には「判断力」は欠かせません。しかし、それは雇い入れれば済む話なんです。外注でもかまいません。しかし、「決断を下す」ことを外してしまえば、それはもはやトップではないでしょう。ですから、やはり、トップに必要なものは「決断力」ではないかと僕は思うわけです。

 

追伸

決して、冒頭で紹介したブログに対抗して否定・批判をしているわけではありません。あくまでも僕個人の感じたことです。もっとも、引用先のブログさんでも、短い記事なので断定は出来ませんが、「判断力を下す」という意味合いで使っていると思います。

思想・思考という木から落ちる言の葉②

さて、昨日の『思想・思考という木から落ちる言の葉①』の続きです。昨日の投稿で例に出したようなものは、言葉の伝えるニュアンスが「単語が異なる」ために非常に分かりやすい例でした。今日は同じ表現を用いながらも「異なるニュアンス」を持つ厄介な「単語」の話です。これは、たとえば、ニヤニヤしながら「賢いね」というか、感心した風に真顔で「賢いね」と言うかというような、発話の仕方によるものではありません。

たとえば、メディアなどでしばしば登場する「知識人」とはどのような意味でしょうか。単に知識をたくさん持っているような人のことでしょうか。日常生活の中で「彼は知識人だね」というような場合にはこれに当てはまるかもしれません。しかし、メディアで登場するときには、これとは明らかに意味の異なる使われ方をしていると思います。

では、「専門家」という意味でしょうか。あるいは「有識者」という意味でしょうか。「知識人」をコメンテーターに招いているような番組では、どのような意味合いで使っていると思いますか?タレントも弁護士も学者も、みな同じ「知識人」なのでしょうか。

どれが正しいか、どう使うべきなのかという用語法については、今回の記事ではどうでもいいのです。ここでの問題は、ここに10人の人がいたら、それぞれが「知識人」というものに異なるイメージを持っているということです。より正確に言うと、別に10人の人がいなくてもかまいません。たった一人の頭の中でも、同じ1つの文章中にある単語を複数のイメージを持って書いてしまっている(語ってしまっている)こともあるからです。

「考える」「思考する」ときに、最初に抱いていた発想(内容)を記しているうちに、派生・発展させて、さらに何かないかと探るときに、目の前にある「単語」から連想して話を進めてしまうことがしばしば起きます。そうすると、当初は「専門家」という意味で話を展開していたのに、中程では「知識を豊富に持つ人」について述べ、後半では「有識者」について述べているというようなことが起きてきます。

ですから、学術論文では、論文の冒頭で何について語ろうとしているのかを述べますが、そこでは単に「単語」の定義に止まらず、文脈という背景の整理を通して「単語」をより厳密に定義していくことをしているわけです。先行研究紹介では、この人の定義のここのところと同じであるとか、この人の定義のこの部分は含まないとかいうようなことを含みますが、こうしたやり方は数行で説明・定義するレベルを超え、先人の研究の中で考察が尽くされた成果すら引用してくることになり、より厳密化します。

もちろん、日常生活でこんなことをしていれば息が詰まります。しかし、相手の使った「単語」が自分の認識している「単語」のイメージ(概念)とズレていないかということに意識して傾聴していると、相手をより深く理解することが出来るようになります。カウンセリングにおいて傾聴が重要視されていますが、このときは、「私の思う相手の考え」ではなく、「相手が思う相手の考え」を理解するために傾聴を行ないます。だからこそ、自分のイメージとのズレを意識しないと傾聴は無意味になります。

そして、自分自身の中でも、議論の中で、あるいは思考の中で、当初のものとズレていっていないかを確認していけば、脱線や論点のズレ、つまりは思考の迷走を避けることが出来るようになります。考えを深めていくことは、1つの現象に注目するということでもあります。現実には無視できない様々な要素がありながらも、考える際には他の要素をすっきりとさせないとなりません。結論に至ってから現実的な諸条件を加えていくと本質的な考え方が出来るようになるからです。

物理などでも「摩擦力はないものとする」とか「ここでは重力は考えない」とか仮定します。このことは文系でも同じです。現実にはあれこれ連関して成立している事象ですが、なにか問題を考察していくときには、周囲のものは排除していきます。このとき、同じ1つの単語の中にもあれこれが存在し、「周囲のもの」と「今ここでテーマにしているもの」とを峻別していかないと、考えは深められないんですね。

思想・思考という木から落ちる言の葉①

1ヶ月ぶり以上の更新である。

僕は常日頃から「言葉を大切にして文章を書こう」と言っています。それは、「文章を書く」という行為そのものが「小さな思考」の表出であり、その小さきものの積み重ねが「思想」になると思っているからです。逆説的ですが、思考力を身に付ける訓練とは、「文章を書く」という行為が最上であり、それこそがもっとも総合的に思考の穴を見つけやすい方法だと信じています。

このことは、「言葉」を選んでいれば、その人の生活をも変える力になるということでもあります。マザー・テレサの言葉に次のようなものがあります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 換言すれば、「てやんでぇ、しゃらくせぇ」と口にしている人は、それにふさわしい思考、行動、習慣、性格、運命を持つということです。いわゆる「下町の江戸っ子」となれば、自ずと人との出会い・体験なども「上方商人」とは違ったものになるでしょう。同様に、常に敬語を用いる人は、固い思考、冒険のない行動、前例踏襲的な習慣、おとなしい性格となり、そう周囲から見られることで運命をもそうしたものになるでしょう。TPO(時と場合と場所)に応じて、敬語以外も使っていく中庸の姿勢こそ大事だということは言うまでもありませんが、「人となり」を決めてしまうのは、やはり言葉に負うところが大きいでしょう。

その「言葉」に気をつけるということですが、「言葉」の最小単位は「単語」です。「文体」よりも、もっと根源的な要素です。同じ場所を指しても、「トイレ」、「お手洗い」、「便所」、「厠」、「雪隠」、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」、「閑所」という、どの言葉を用いるかで「人となり」、つまりは思想が垣間見られます。「トイレ」から「厠」までは比較的知っている人も多い言葉です。「厠」が和風建築で用いられるのも、「トイレ」と書くよりは雰囲気を出せるからで、「人となり」ならぬ「店となり」を表そうとの意図を読み取れます。

「雪隠」は、学校の古文の授業で扱われることもあり、ちょっとふざけてユーモラスに言うときなどに使う傾向があるように感じます。逆に、今の時代、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」はなかなか通じない言葉であり、これらを使う人は気取っているとか嫌らしい性格の人と思われそうです。「閑所」にいたっては、いわずもがなです。社会的にほとんど通用しない言葉遣いは、もはやコミュニケーションツールとしての「言葉」の役割を放棄しているかのようで、意思疎通を図ろうという意思さえ疑わしくなります。こうした言葉遣いからは、他者へ対する気持ちが読み取れます。

たとえば、「閑所」という言葉を使うことで、それを知らない他者を下に見て安心を得ようとする「劣等感」のようなものを見いだせると思います。もっとも、これは自分も何かのきっかけでたまたま知らない言葉に出逢い、それをさも以前より知っていたかのように使って自らを喧伝している自己承認欲求の表れの1つです。その言葉を知っている人は「賢い」とか「知識人」と感じる性格をもっていると表明していることになります。そして、自分はそれに憧れている、と。他者による自己の認識をそういうものにしたいとの希望が出ています。しかし、残念ながら、往々にして、その承認欲求は「なんだ、こいつ?変なヤツだ」で片付けられてしまうことも多いですね。そして、ますますエスカレートしてしまう。そうした事例には事欠かないでしょう。

このように書いてくると、「よし、では言葉に気をつけよう」となると思うのですが、思考を深めようとした場合、哲学的とまではいかなくても学術的に精緻に表現しようとなれば、さらに「気をつける度合い」が高まります。しかし、これは学術的ではなく日常的にも必要な注意事項で、日常生活においても起きうるミスに繋がります。次回の投稿では、このあたりを考察してみようと思います。

日々是更新

昨日、弟子の一人と話をした。いわく、「僕の今の原則は先生から教わったこと」だという。卒業・就職して3年、25才になった市役所職員である。少し遠くにいるので、なかなか会うことは出来ない。しかし、今もこうして仲良くしている。今回の話の中で、「7つの習慣」と「アドラー心理学」が話題に出た。

「7つの習慣」はフランクリン・コビーの著書であり、今は「第8の習慣」まであるが、僕は個人的には「第8」は蛇足であり、7つまでで体系的には完成していると思っている。そして、アドラー心理学は、25才前後の人にとってベストセラーである。彼らが社会に出るときに流行した書籍だからだ。ちょうど人間関係に悩む時期に書店で邂逅したのであろう。こうした時期に出逢った本の影響力は大きい。

しかし、どちらも「更新」が必要な時期に来ていると思う。この背景には、社会産業構造に産業革命期以来の大きな変動が起きているということ、多様性を大きく認める時代になっているということの2つがある。社会産業構造の変化とは、産業革命の終着点である「大量生産大量消費」に陰りが見えてきたことで、人々の生活様式に変化をもたらしていることを指す。大量生産は効率性や合理性の極限であり、労働力の減少などの人口減少問題とも絡む一方で、同じ人口減少問題により大量消費は成立しなくなった。

この大量消費の限界には、多様性の拡充も一役買っている。多様性が拡がれば拡がるほど、画一的な商品は売れず、大量消費に代わってカスタマイズ化された商品が注目を浴びていくるようになる。今やパソコンでもスーツでも、オーダーメイドないしカスタマイズが主流になりつつある。主流は言い過ぎかもしれないが、オーダーメイドないしカスタマイズは一部の富裕者向け商品ではなく、普通の人々の手の届く範囲に確実に降りてきている。ZOZOSUITによる体型測量は、その最たるものであろう。

資本主義は船による水平線の拡張、鉄道による地平線の拡張、そして空や宇宙への拡張と飽くなき膨張をし、今やサイバー空間への拡張にまで到達しているが、ここにきて膨張する「空間」がなくなったと言われている。そして、およそ200年前からの「人口爆発」も先進国では縮小へと向かい始めた。資本主義の機能する土壌が失われつつある。しかも、AIやビックデータという前代未聞の未知の要素が本格参入してきた。

こうした変化は、1980年代までの、いわゆる資本主義社会を前提とした処方箋も変化をしなければならないということを意味するであろう。もちろん、全面改定ではなく、部分的加筆修正である。社会は急激な変化をしないからである。必ず、それまでの時代を色濃く引きずる。明治維新期に西洋文明が日本に流入しても、人々の意識は江戸時代を引きずり、いわゆる西欧型とは異なる日本型近代社会を成立させたように、である。

つまり、「7つの習慣」は、人口減少社会にも関わらず多様性が拡充した社会において、その拠って立つ前提を変えての再検討が必要であろう。また、多様性が拡がって個人性が注目されていく中、人間の持つ集団性に対する「個人心理学」としてのアドラー心理学も再読が求められよう。アドラー心理学は「心の持ち方」に関するものであり、昨日の話題に出した「人目を気にしすぎる」ことへの対処である。だから、社会的ニーズを受けてのベストセラーだと思う。

こうした古典の現代的位置付けをした上で、古典を再読・再検討していくことが今後の課題となってくるはずだ。3~5年前に僕を師事した学生たちをもう一度集めて、教えた内容の更新をしたいと強く願うに至った。冒頭の学生に久しぶりに会おうと提案してみた。近いところで実現することを期待している。

志望動機の書き方

就職活動における学生の志望動機書を添削していると、最近の若者の傾向が分かる。そんな中でも、とくに2つのことが気になっているので、今回はそれらについて書こうと思う。

1つめは、「人目を気にしすぎること」です。志望動機とは、志すこと・望むことのきっかけであるはずだが、それが「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」ということばかりなのだ。これらを綺麗事として遠ざけるつもりはない。こうした「名誉欲」も立派な志望動機であろう。しかしながら、就職活動の人物試験として志望動機を尋ねられたなら、それは自分を中心にした「野望」であるべきだろう。人が人がと主張を繰り返して、自分を売り込めるわけがない。

この意味で、「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」というのは周縁にあるものだ。これらはけっして「やりたいこと」ではなく、その結果としての副産物に過ぎない。自分が主人公としてやりたいことを実行した結果、人のためになって、人を笑顔にして、そして人の役に立つのである。語弊を恐れずに言えば、人のことなんか気にせずに自分のやりたいことをトコトンまで貫くのがよい。己や己の仕事の質を高めてこそ、周囲に気を配ることが出来るようになる。

己の性格のどんな特質を何でどのように活かして人の役に立つのか。これを過去の経験などを用いて説得力を持たせながら伝えていくのが、志望動機の書き方であろう。己の性格が何か、それは社会的に、あるいは仕事上、どのようなプラスの、ないしマイナスの貢献をするのかについて考察することは自己分析であり、どのように活かせるのかについては業界研究である。

そして、気になる2つめは、この自己分析や業界研究において、自分に嘘をついているということである。自分自身でも信じていないような志望動機が述べられているのである。公務員で言えば、「少子高齢化社会を打開したい」とか「治安を守りたい」とか述べるのであるが、本気でそう思っているのか、本心からそう願っているのか、こうした志望動機を読むと、このように問いたい気分にさせられる。

少子高齢化や治安維持は確かにその通りである。いわゆる行政課題である。でも、おそらくそれは「どこかで聞いてきた他人の考え」の域を出ていない。メディアでも先生からでも、出所が何であれ、コピペにしかすぎない。そして、厄介なことに、本人も「そうだ」と思い込んでいるのである。しかし、少し質問を重ねていっても、なぜ少子高齢化社会や治安維持が本人にとって解決するべき課題なのか、いっこうに埒があかない。

本当はどこかで少子高齢化や治安維持はどうでもいいと思っているのではなかろうか。でも、そこを受験する以上、まさしくテンプレートのように「私は某に興味があり、解決したいと思っている」と述べるのである。つまり、本当の志望動機が隠れ、人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまう(コピペしてしまう)のである。ここにおいても、「人目を気にしすぎている」。

人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまうから、面接試験で「なぜ?」「どうして?」と重ねられれば、すぐに行き詰まってしまう。自分の考えではないのだから根拠に乏しく、答えられないのも当然である。つまりは「熱意」が足りないと判を下されてしまうであろう。逆に言えば、自分の心にトコトン向き合い、綺麗事を意識せずに、つまりは人目を気にせずに、自分自身が持つ生々しい気持ちに向き合うことこそ、正しい自己分析である。

もちろん、生々しい気持ちをそのまま表に出すことは社会的ではない。表に出すときには表現方法に気を配るべきである。人間関係を気にするのは、こうしたアウトプットの場面だけで充分である。内面にある自らの気持ちの形成にまで他者を関わらせる必要はない。そして、このプロセスを経た志望動機は、幾重もの「なぜ?」「どうして?」に耐えうるし、その語りには、考えに考え抜いたからこそ、熱意が充分に籠もるのである。

最後に1つ。考えに考え抜くということは、「これで結論」と思ったところをスタート地点にすることである。

今日の投稿が世の若者諸氏に資することを願っている。

ムラ社会とグローバル世界

今回は政治的に微妙な話題となることを最初に申し上げておく。そして、いわゆる「差別」意識なく率直に思うところを述べていくので、そういう前提で読んでいただけたらと思う。

先日、大阪なおみ選手がテニスの4大大会「グランドスラム」で優勝した。興奮した対戦相手の見苦しさに比して、試合中でも表彰式でも、その遠慮がちながらも堂々とした態度は立派であったし、なにより、偉業を成し遂げたことは、心からの盛大な拍手を送りたい。

しかし、その一方で、彼女が「日本人として初の快挙」とか「日本人選手」として紹介されるたびに、正直、違和感を抱いたのも確かである。ハイチ系米国人を父に持ち、日本人を母に持つ彼女が、見かけ上、いわゆる僕の中の「典型的な日本人」像から懸け離れているからである。

これには思い当たる節もある。日本の国技たる大相撲で外国人力士が横綱として多数輩出され、日本人横綱がいなくなったあたりから、相撲に対して抱いた違和感と同じなのである。見た目はきわめて日本人に近いアジア系外国人力士であっても、相撲は神道の神事である。日本人としての精神性が高く問われる。外国人力士の活躍を耳にするたびに、神事としての相撲は、いつしか消えてなくなったかのような気がしたのである。昨今の相撲協会のゴタゴタは、そうした一連の出来事の帰結のようにすら思えた。

これらは僕が古いことに拠ると自覚している。エリック・ホブズボームがグローバリズムの進む世界を「グローバル・ビレッジ(地球村)」と称したが、僕は「ジャパン・ビレッジ(日本村)」から精神的に抜け出せないでいる。この村はなかなかに強固で、「典型的」でないものを排除するような排他的なムラ社会である。だから、幼少の頃にニューヨークに移り住み、カタコトの日本語を操り、アメリカ社会で育った彼女を「日本人」の成果として認められないでいる。

グローバル化が急激に進み、町中で外国人を多数見かけるようになった。地域の公立学校にも外国人を親に持つ子どもの割合が増えている。僕の子ども時代にはまず日常になかった風景である。こうした時代背景の中で、「日本人とは何か」という精神性が問われ、日本人としてのアイデンティティが揺らいでいるのである。

しかし、大阪なおみ選手を見ていると、表彰式で「ごめんなさい」と泣きながらに周囲へ細やかな配慮を示したり、試合後には「カツ丼」や「カツカレー」を食べたいと言ったり、はにかんだ笑顔を見せたりという場面に接すると、古き良き日本人の姿をはっきりと見て取るのである。精神性は明らかに日本人である。だからこそ、見かけ上に惑わされ、本質で見ようとして見かけに戻り、と両者の間を行ったり来たりしている。

こういうアイデンティティの危機に直面するからこそ、大阪なおみ選手の存在は僕の「現代人としての日本人」を問いかけ続けている。グローバル世界に生きているからこそ、「国際人」という根無し草ではない「日本人」としてグローバル世界にアクセスしようとしてきたが、本当の意味での「グローバル世界」を生きるということは、純血を守ることではなく、大阪なおみ選手の持つ「日本人らしさ」の精神性を維持することなのかもしれない。

ここで、「維持することだ」と断言できず、そのように変わろうと決意を表明できない部分に、ムラ社会で生きてきた頑固さが僕に残っているのである。なんとも悩ましいことだ。頭では分かっていても感情が付いてこないのである。感情をもてあます最近である。