学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

思想・思考という木から落ちる言の葉②

さて、昨日の『思想・思考という木から落ちる言の葉①』の続きです。昨日の投稿で例に出したようなものは、言葉の伝えるニュアンスが「単語が異なる」ために非常に分かりやすい例でした。今日は同じ表現を用いながらも「異なるニュアンス」を持つ厄介な「単語」の話です。これは、たとえば、ニヤニヤしながら「賢いね」というか、感心した風に真顔で「賢いね」と言うかというような、発話の仕方によるものではありません。

たとえば、メディアなどでしばしば登場する「知識人」とはどのような意味でしょうか。単に知識をたくさん持っているような人のことでしょうか。日常生活の中で「彼は知識人だね」というような場合にはこれに当てはまるかもしれません。しかし、メディアで登場するときには、これとは明らかに意味の異なる使われ方をしていると思います。

では、「専門家」という意味でしょうか。あるいは「有識者」という意味でしょうか。「知識人」をコメンテーターに招いているような番組では、どのような意味合いで使っていると思いますか?タレントも弁護士も学者も、みな同じ「知識人」なのでしょうか。

どれが正しいか、どう使うべきなのかという用語法については、今回の記事ではどうでもいいのです。ここでの問題は、ここに10人の人がいたら、それぞれが「知識人」というものに異なるイメージを持っているということです。より正確に言うと、別に10人の人がいなくてもかまいません。たった一人の頭の中でも、同じ1つの文章中にある単語を複数のイメージを持って書いてしまっている(語ってしまっている)こともあるからです。

「考える」「思考する」ときに、最初に抱いていた発想(内容)を記しているうちに、派生・発展させて、さらに何かないかと探るときに、目の前にある「単語」から連想して話を進めてしまうことがしばしば起きます。そうすると、当初は「専門家」という意味で話を展開していたのに、中程では「知識を豊富に持つ人」について述べ、後半では「有識者」について述べているというようなことが起きてきます。

ですから、学術論文では、論文の冒頭で何について語ろうとしているのかを述べますが、そこでは単に「単語」の定義に止まらず、文脈という背景の整理を通して「単語」をより厳密に定義していくことをしているわけです。先行研究紹介では、この人の定義のここのところと同じであるとか、この人の定義のこの部分は含まないとかいうようなことを含みますが、こうしたやり方は数行で説明・定義するレベルを超え、先人の研究の中で考察が尽くされた成果すら引用してくることになり、より厳密化します。

もちろん、日常生活でこんなことをしていれば息が詰まります。しかし、相手の使った「単語」が自分の認識している「単語」のイメージ(概念)とズレていないかということに意識して傾聴していると、相手をより深く理解することが出来るようになります。カウンセリングにおいて傾聴が重要視されていますが、このときは、「私の思う相手の考え」ではなく、「相手が思う相手の考え」を理解するために傾聴を行ないます。だからこそ、自分のイメージとのズレを意識しないと傾聴は無意味になります。

そして、自分自身の中でも、議論の中で、あるいは思考の中で、当初のものとズレていっていないかを確認していけば、脱線や論点のズレ、つまりは思考の迷走を避けることが出来るようになります。考えを深めていくことは、1つの現象に注目するということでもあります。現実には無視できない様々な要素がありながらも、考える際には他の要素をすっきりとさせないとなりません。結論に至ってから現実的な諸条件を加えていくと本質的な考え方が出来るようになるからです。

物理などでも「摩擦力はないものとする」とか「ここでは重力は考えない」とか仮定します。このことは文系でも同じです。現実にはあれこれ連関して成立している事象ですが、なにか問題を考察していくときには、周囲のものは排除していきます。このとき、同じ1つの単語の中にもあれこれが存在し、「周囲のもの」と「今ここでテーマにしているもの」とを峻別していかないと、考えは深められないんですね。

思想・思考という木から落ちる言の葉①

1ヶ月ぶり以上の更新である。

僕は常日頃から「言葉を大切にして文章を書こう」と言っています。それは、「文章を書く」という行為そのものが「小さな思考」の表出であり、その小さきものの積み重ねが「思想」になると思っているからです。逆説的ですが、思考力を身に付ける訓練とは、「文章を書く」という行為が最上であり、それこそがもっとも総合的に思考の穴を見つけやすい方法だと信じています。

このことは、「言葉」を選んでいれば、その人の生活をも変える力になるということでもあります。マザー・テレサの言葉に次のようなものがあります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 換言すれば、「てやんでぇ、しゃらくせぇ」と口にしている人は、それにふさわしい思考、行動、習慣、性格、運命を持つということです。いわゆる「下町の江戸っ子」となれば、自ずと人との出会い・体験なども「上方商人」とは違ったものになるでしょう。同様に、常に敬語を用いる人は、固い思考、冒険のない行動、前例踏襲的な習慣、おとなしい性格となり、そう周囲から見られることで運命をもそうしたものになるでしょう。TPO(時と場合と場所)に応じて、敬語以外も使っていく中庸の姿勢こそ大事だということは言うまでもありませんが、「人となり」を決めてしまうのは、やはり言葉に負うところが大きいでしょう。

その「言葉」に気をつけるということですが、「言葉」の最小単位は「単語」です。「文体」よりも、もっと根源的な要素です。同じ場所を指しても、「トイレ」、「お手洗い」、「便所」、「厠」、「雪隠」、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」、「閑所」という、どの言葉を用いるかで「人となり」、つまりは思想が垣間見られます。「トイレ」から「厠」までは比較的知っている人も多い言葉です。「厠」が和風建築で用いられるのも、「トイレ」と書くよりは雰囲気を出せるからで、「人となり」ならぬ「店となり」を表そうとの意図を読み取れます。

「雪隠」は、学校の古文の授業で扱われることもあり、ちょっとふざけてユーモラスに言うときなどに使う傾向があるように感じます。逆に、今の時代、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」はなかなか通じない言葉であり、これらを使う人は気取っているとか嫌らしい性格の人と思われそうです。「閑所」にいたっては、いわずもがなです。社会的にほとんど通用しない言葉遣いは、もはやコミュニケーションツールとしての「言葉」の役割を放棄しているかのようで、意思疎通を図ろうという意思さえ疑わしくなります。こうした言葉遣いからは、他者へ対する気持ちが読み取れます。

たとえば、「閑所」という言葉を使うことで、それを知らない他者を下に見て安心を得ようとする「劣等感」のようなものを見いだせると思います。もっとも、これは自分も何かのきっかけでたまたま知らない言葉に出逢い、それをさも以前より知っていたかのように使って自らを喧伝している自己承認欲求の表れの1つです。その言葉を知っている人は「賢い」とか「知識人」と感じる性格をもっていると表明していることになります。そして、自分はそれに憧れている、と。他者による自己の認識をそういうものにしたいとの希望が出ています。しかし、残念ながら、往々にして、その承認欲求は「なんだ、こいつ?変なヤツだ」で片付けられてしまうことも多いですね。そして、ますますエスカレートしてしまう。そうした事例には事欠かないでしょう。

このように書いてくると、「よし、では言葉に気をつけよう」となると思うのですが、思考を深めようとした場合、哲学的とまではいかなくても学術的に精緻に表現しようとなれば、さらに「気をつける度合い」が高まります。しかし、これは学術的ではなく日常的にも必要な注意事項で、日常生活においても起きうるミスに繋がります。次回の投稿では、このあたりを考察してみようと思います。

日々是更新

昨日、弟子の一人と話をした。いわく、「僕の今の原則は先生から教わったこと」だという。卒業・就職して3年、25才になった市役所職員である。少し遠くにいるので、なかなか会うことは出来ない。しかし、今もこうして仲良くしている。今回の話の中で、「7つの習慣」と「アドラー心理学」が話題に出た。

「7つの習慣」はフランクリン・コビーの著書であり、今は「第8の習慣」まであるが、僕は個人的には「第8」は蛇足であり、7つまでで体系的には完成していると思っている。そして、アドラー心理学は、25才前後の人にとってベストセラーである。彼らが社会に出るときに流行した書籍だからだ。ちょうど人間関係に悩む時期に書店で邂逅したのであろう。こうした時期に出逢った本の影響力は大きい。

しかし、どちらも「更新」が必要な時期に来ていると思う。この背景には、社会産業構造に産業革命期以来の大きな変動が起きているということ、多様性を大きく認める時代になっているということの2つがある。社会産業構造の変化とは、産業革命の終着点である「大量生産大量消費」に陰りが見えてきたことで、人々の生活様式に変化をもたらしていることを指す。大量生産は効率性や合理性の極限であり、労働力の減少などの人口減少問題とも絡む一方で、同じ人口減少問題により大量消費は成立しなくなった。

この大量消費の限界には、多様性の拡充も一役買っている。多様性が拡がれば拡がるほど、画一的な商品は売れず、大量消費に代わってカスタマイズ化された商品が注目を浴びていくるようになる。今やパソコンでもスーツでも、オーダーメイドないしカスタマイズが主流になりつつある。主流は言い過ぎかもしれないが、オーダーメイドないしカスタマイズは一部の富裕者向け商品ではなく、普通の人々の手の届く範囲に確実に降りてきている。ZOZOSUITによる体型測量は、その最たるものであろう。

資本主義は船による水平線の拡張、鉄道による地平線の拡張、そして空や宇宙への拡張と飽くなき膨張をし、今やサイバー空間への拡張にまで到達しているが、ここにきて膨張する「空間」がなくなったと言われている。そして、およそ200年前からの「人口爆発」も先進国では縮小へと向かい始めた。資本主義の機能する土壌が失われつつある。しかも、AIやビックデータという前代未聞の未知の要素が本格参入してきた。

こうした変化は、1980年代までの、いわゆる資本主義社会を前提とした処方箋も変化をしなければならないということを意味するであろう。もちろん、全面改定ではなく、部分的加筆修正である。社会は急激な変化をしないからである。必ず、それまでの時代を色濃く引きずる。明治維新期に西洋文明が日本に流入しても、人々の意識は江戸時代を引きずり、いわゆる西欧型とは異なる日本型近代社会を成立させたように、である。

つまり、「7つの習慣」は、人口減少社会にも関わらず多様性が拡充した社会において、その拠って立つ前提を変えての再検討が必要であろう。また、多様性が拡がって個人性が注目されていく中、人間の持つ集団性に対する「個人心理学」としてのアドラー心理学も再読が求められよう。アドラー心理学は「心の持ち方」に関するものであり、昨日の話題に出した「人目を気にしすぎる」ことへの対処である。だから、社会的ニーズを受けてのベストセラーだと思う。

こうした古典の現代的位置付けをした上で、古典を再読・再検討していくことが今後の課題となってくるはずだ。3~5年前に僕を師事した学生たちをもう一度集めて、教えた内容の更新をしたいと強く願うに至った。冒頭の学生に久しぶりに会おうと提案してみた。近いところで実現することを期待している。

志望動機の書き方

就職活動における学生の志望動機書を添削していると、最近の若者の傾向が分かる。そんな中でも、とくに2つのことが気になっているので、今回はそれらについて書こうと思う。

1つめは、「人目を気にしすぎること」です。志望動機とは、志すこと・望むことのきっかけであるはずだが、それが「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」ということばかりなのだ。これらを綺麗事として遠ざけるつもりはない。こうした「名誉欲」も立派な志望動機であろう。しかしながら、就職活動の人物試験として志望動機を尋ねられたなら、それは自分を中心にした「野望」であるべきだろう。人が人がと主張を繰り返して、自分を売り込めるわけがない。

この意味で、「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」というのは周縁にあるものだ。これらはけっして「やりたいこと」ではなく、その結果としての副産物に過ぎない。自分が主人公としてやりたいことを実行した結果、人のためになって、人を笑顔にして、そして人の役に立つのである。語弊を恐れずに言えば、人のことなんか気にせずに自分のやりたいことをトコトンまで貫くのがよい。己や己の仕事の質を高めてこそ、周囲に気を配ることが出来るようになる。

己の性格のどんな特質を何でどのように活かして人の役に立つのか。これを過去の経験などを用いて説得力を持たせながら伝えていくのが、志望動機の書き方であろう。己の性格が何か、それは社会的に、あるいは仕事上、どのようなプラスの、ないしマイナスの貢献をするのかについて考察することは自己分析であり、どのように活かせるのかについては業界研究である。

そして、気になる2つめは、この自己分析や業界研究において、自分に嘘をついているということである。自分自身でも信じていないような志望動機が述べられているのである。公務員で言えば、「少子高齢化社会を打開したい」とか「治安を守りたい」とか述べるのであるが、本気でそう思っているのか、本心からそう願っているのか、こうした志望動機を読むと、このように問いたい気分にさせられる。

少子高齢化や治安維持は確かにその通りである。いわゆる行政課題である。でも、おそらくそれは「どこかで聞いてきた他人の考え」の域を出ていない。メディアでも先生からでも、出所が何であれ、コピペにしかすぎない。そして、厄介なことに、本人も「そうだ」と思い込んでいるのである。しかし、少し質問を重ねていっても、なぜ少子高齢化社会や治安維持が本人にとって解決するべき課題なのか、いっこうに埒があかない。

本当はどこかで少子高齢化や治安維持はどうでもいいと思っているのではなかろうか。でも、そこを受験する以上、まさしくテンプレートのように「私は某に興味があり、解決したいと思っている」と述べるのである。つまり、本当の志望動機が隠れ、人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまう(コピペしてしまう)のである。ここにおいても、「人目を気にしすぎている」。

人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまうから、面接試験で「なぜ?」「どうして?」と重ねられれば、すぐに行き詰まってしまう。自分の考えではないのだから根拠に乏しく、答えられないのも当然である。つまりは「熱意」が足りないと判を下されてしまうであろう。逆に言えば、自分の心にトコトン向き合い、綺麗事を意識せずに、つまりは人目を気にせずに、自分自身が持つ生々しい気持ちに向き合うことこそ、正しい自己分析である。

もちろん、生々しい気持ちをそのまま表に出すことは社会的ではない。表に出すときには表現方法に気を配るべきである。人間関係を気にするのは、こうしたアウトプットの場面だけで充分である。内面にある自らの気持ちの形成にまで他者を関わらせる必要はない。そして、このプロセスを経た志望動機は、幾重もの「なぜ?」「どうして?」に耐えうるし、その語りには、考えに考え抜いたからこそ、熱意が充分に籠もるのである。

最後に1つ。考えに考え抜くということは、「これで結論」と思ったところをスタート地点にすることである。

今日の投稿が世の若者諸氏に資することを願っている。

ムラ社会とグローバル世界

今回は政治的に微妙な話題となることを最初に申し上げておく。そして、いわゆる「差別」意識なく率直に思うところを述べていくので、そういう前提で読んでいただけたらと思う。

先日、大阪なおみ選手がテニスの4大大会「グランドスラム」で優勝した。興奮した対戦相手の見苦しさに比して、試合中でも表彰式でも、その遠慮がちながらも堂々とした態度は立派であったし、なにより、偉業を成し遂げたことは、心からの盛大な拍手を送りたい。

しかし、その一方で、彼女が「日本人として初の快挙」とか「日本人選手」として紹介されるたびに、正直、違和感を抱いたのも確かである。ハイチ系米国人を父に持ち、日本人を母に持つ彼女が、見かけ上、いわゆる僕の中の「典型的な日本人」像から懸け離れているからである。

これには思い当たる節もある。日本の国技たる大相撲で外国人力士が横綱として多数輩出され、日本人横綱がいなくなったあたりから、相撲に対して抱いた違和感と同じなのである。見た目はきわめて日本人に近いアジア系外国人力士であっても、相撲は神道の神事である。日本人としての精神性が高く問われる。外国人力士の活躍を耳にするたびに、神事としての相撲は、いつしか消えてなくなったかのような気がしたのである。昨今の相撲協会のゴタゴタは、そうした一連の出来事の帰結のようにすら思えた。

これらは僕が古いことに拠ると自覚している。エリック・ホブズボームがグローバリズムの進む世界を「グローバル・ビレッジ(地球村)」と称したが、僕は「ジャパン・ビレッジ(日本村)」から精神的に抜け出せないでいる。この村はなかなかに強固で、「典型的」でないものを排除するような排他的なムラ社会である。だから、幼少の頃にニューヨークに移り住み、カタコトの日本語を操り、アメリカ社会で育った彼女を「日本人」の成果として認められないでいる。

グローバル化が急激に進み、町中で外国人を多数見かけるようになった。地域の公立学校にも外国人を親に持つ子どもの割合が増えている。僕の子ども時代にはまず日常になかった風景である。こうした時代背景の中で、「日本人とは何か」という精神性が問われ、日本人としてのアイデンティティが揺らいでいるのである。

しかし、大阪なおみ選手を見ていると、表彰式で「ごめんなさい」と泣きながらに周囲へ細やかな配慮を示したり、試合後には「カツ丼」や「カツカレー」を食べたいと言ったり、はにかんだ笑顔を見せたりという場面に接すると、古き良き日本人の姿をはっきりと見て取るのである。精神性は明らかに日本人である。だからこそ、見かけ上に惑わされ、本質で見ようとして見かけに戻り、と両者の間を行ったり来たりしている。

こういうアイデンティティの危機に直面するからこそ、大阪なおみ選手の存在は僕の「現代人としての日本人」を問いかけ続けている。グローバル世界に生きているからこそ、「国際人」という根無し草ではない「日本人」としてグローバル世界にアクセスしようとしてきたが、本当の意味での「グローバル世界」を生きるということは、純血を守ることではなく、大阪なおみ選手の持つ「日本人らしさ」の精神性を維持することなのかもしれない。

ここで、「維持することだ」と断言できず、そのように変わろうと決意を表明できない部分に、ムラ社会で生きてきた頑固さが僕に残っているのである。なんとも悩ましいことだ。頭では分かっていても感情が付いてこないのである。感情をもてあます最近である。

批判のための批判

政治家やテレビのコメンテーターの発言を聞いていると、その発言の意味するところを理解していないのか、いわゆるブーメラン発言が目立つようになって久しい。しかし、もっと近いところでは、あまりにも発言が無責任であることも目立ってきたように感じる。

8月10日発売の「文藝春秋」9月号で、自民党石破茂元幹事長は、安倍総理への「宣戦布告」ともいうべき手記「安倍総理よ、命を懸けて私は闘う」を発表した。元防衛大臣や国民や自衛官の命を守るべき立場を目指す人に、そうそう簡単に命のやりとりを云々してもらいたくない。自民党総裁選で負けたら本当に命を絶つのならよい。あるいは、「政治生命」との比喩として、議員辞職をするのならよい。発言に重みもあろうし、それだけの覚悟なのだろうと思う。しかし、実際には何事もなかったような日常へと回帰するのだ。

そもそも、野党であるかのようにモリカケ問題を糾弾して、正直や公正な政権を目指すと言うが、これでは自民党総裁を目指す与党議員が政権打倒を宣言に等しいではないか。政権打倒ではなく総裁交代という話であるのに、政権打倒を謳うから与党議員や与党支持者の大半から支持を失うのは自然なことである。官僚による一連の不祥事は、たまたまここで表出したに過ぎず、話の発端は民主党時代からもあったはずである。政治家は官僚を信頼して実務を任せるのであって、その官僚が不祥事を起こしたら罰すればよい。安倍政権だから不祥事が起き、安倍政権だから腐敗したという構図ではない。

とすれば、野党も与党と一緒になって官僚コントロールに知恵を絞るべきところだ。ところが、政権打倒にばかり目がいき、批判のための批判しか出てこなくなる。批判のための批判とは、結論ありきの批判である。安倍総裁を辞めさせる、安倍総理を辞めさせるというところに結論を持ってきているから、与党内の総裁選と野党からの政権打倒が同じ論調、同じ枠組みの中に属するという奇妙な現象が発生している。

本来、批判とは、物事に検討を加えて、判定・評価することである。批判のための批判とは、物事を検討する前に判定してしまっているのである。これでは建設的ではなく、議論の成り立つ余地を奪い、感情的な対立やしこりを残すだけの徒労に終わる。これが言論の府での出来事である。

議論を成り立たせるためには、まずは、言葉に敏感になることが必要だ。センセーショナルな煽りではなく、インパクトの強さを意識するのではなく、その意味するところを正確にしなければならない。そのうえで、物事の構図を定め、どこがどのように問題なのかと課題発見をする。こうして議論はスタートできる。自らが野党党首になっているかのような構図で議論を始めることは建設的ではないと思う。自らが政治家でなく市民になっている構図での議論はナンセンスですらある。

モラル・ハザード

最近の不祥事を見ていると、「モラルが崩壊している」の一言に行き着くのではないかと感じている。文科省収賄自民党総裁選、沖縄基地問題東京オリンピックのボランティア問題、銀行員不祥事、東京医科大、大相撲や日大やボクシングなどのスポーツ、大塚家具経営破綻、東芝や神戸鉄鋼など、世間を騒がせるニュースを耳にするたびに、当事者にモラルがあれば問題にすらならなかった問題と思ってしまう。

つまり、一連の不祥事は、制度やシステムの問題ではなく、運用の問題である。戦後に設計された制度疲労やシステム不全があるのは確かだろうと思うが、もっとも疲弊しているのは人の心のほうではないかと思う。運用する側の心構えがきちんとしていれば、ある程度は制度疲労やシステム不全は補える。

もちろん、制度やシステムは性悪説に基づき、どのような人が運用しようとも一定水準の成果を上げられるように設計されている。そこのところでマンパワーに頼るような制度やシステムは立案の時点でアウトである。人の良さ、人の好意を当てにした設計は人を犠牲にするだけである。

だからこそ、制度やシステムでは、チェック監査機能が十全に働くようにしなければならない。制度やシステムにおけるチェック機能の重要性は、その機能が過不足なく動くために必須である。民主主義でも国家でも会社でもプログラムなどでも、およそチェック機能が不十分なところでは制度やシステムは脆く崩れ去るしかない。

今回の一連の不祥事では、たいてい、このチェック機能のところが破綻している。もっともあからさまな例で言えば、日大で内田氏が運動部を統括する保健体育審議会の局長職にあったことである。管理する方とされるほうが同一人物であれば、監査機能が働かないばかりか、制度やシステムを意図的に破壊したに等しい。制度やシステムがきちんと整っていても、骨抜きにする運用法である。このことは、銀行など他のところ大なり小なり同じである。

ということは、人の心を育てなければならない。職に対する矜持、技術に対する誇りといったものは今こそ必要とされている。宗教が崩壊したと言われているが、今後は宗教的な何かが興隆してくると思っている。なぜなら、多くの人々が今、住みにくさを感じていると思うからだ。