学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

批判のための批判

政治家やテレビのコメンテーターの発言を聞いていると、その発言の意味するところを理解していないのか、いわゆるブーメラン発言が目立つようになって久しい。しかし、もっと近いところでは、あまりにも発言が無責任であることも目立ってきたように感じる。

8月10日発売の「文藝春秋」9月号で、自民党石破茂元幹事長は、安倍総理への「宣戦布告」ともいうべき手記「安倍総理よ、命を懸けて私は闘う」を発表した。元防衛大臣や国民や自衛官の命を守るべき立場を目指す人に、そうそう簡単に命のやりとりを云々してもらいたくない。自民党総裁選で負けたら本当に命を絶つのならよい。あるいは、「政治生命」との比喩として、議員辞職をするのならよい。発言に重みもあろうし、それだけの覚悟なのだろうと思う。しかし、実際には何事もなかったような日常へと回帰するのだ。

そもそも、野党であるかのようにモリカケ問題を糾弾して、正直や公正な政権を目指すと言うが、これでは自民党総裁を目指す与党議員が政権打倒を宣言に等しいではないか。政権打倒ではなく総裁交代という話であるのに、政権打倒を謳うから与党議員や与党支持者の大半から支持を失うのは自然なことである。官僚による一連の不祥事は、たまたまここで表出したに過ぎず、話の発端は民主党時代からもあったはずである。政治家は官僚を信頼して実務を任せるのであって、その官僚が不祥事を起こしたら罰すればよい。安倍政権だから不祥事が起き、安倍政権だから腐敗したという構図ではない。

とすれば、野党も与党と一緒になって官僚コントロールに知恵を絞るべきところだ。ところが、政権打倒にばかり目がいき、批判のための批判しか出てこなくなる。批判のための批判とは、結論ありきの批判である。安倍総裁を辞めさせる、安倍総理を辞めさせるというところに結論を持ってきているから、与党内の総裁選と野党からの政権打倒が同じ論調、同じ枠組みの中に属するという奇妙な現象が発生している。

本来、批判とは、物事に検討を加えて、判定・評価することである。批判のための批判とは、物事を検討する前に判定してしまっているのである。これでは建設的ではなく、議論の成り立つ余地を奪い、感情的な対立やしこりを残すだけの徒労に終わる。これが言論の府での出来事である。

議論を成り立たせるためには、まずは、言葉に敏感になることが必要だ。センセーショナルな煽りではなく、インパクトの強さを意識するのではなく、その意味するところを正確にしなければならない。そのうえで、物事の構図を定め、どこがどのように問題なのかと課題発見をする。こうして議論はスタートできる。自らが野党党首になっているかのような構図で議論を始めることは建設的ではないと思う。自らが政治家でなく市民になっている構図での議論はナンセンスですらある。

モラル・ハザード

最近の不祥事を見ていると、「モラルが崩壊している」の一言に行き着くのではないかと感じている。文科省収賄自民党総裁選、沖縄基地問題東京オリンピックのボランティア問題、銀行員不祥事、東京医科大、大相撲や日大やボクシングなどのスポーツ、大塚家具経営破綻、東芝や神戸鉄鋼など、世間を騒がせるニュースを耳にするたびに、当事者にモラルがあれば問題にすらならなかった問題と思ってしまう。

つまり、一連の不祥事は、制度やシステムの問題ではなく、運用の問題である。戦後に設計された制度疲労やシステム不全があるのは確かだろうと思うが、もっとも疲弊しているのは人の心のほうではないかと思う。運用する側の心構えがきちんとしていれば、ある程度は制度疲労やシステム不全は補える。

もちろん、制度やシステムは性悪説に基づき、どのような人が運用しようとも一定水準の成果を上げられるように設計されている。そこのところでマンパワーに頼るような制度やシステムは立案の時点でアウトである。人の良さ、人の好意を当てにした設計は人を犠牲にするだけである。

だからこそ、制度やシステムでは、チェック監査機能が十全に働くようにしなければならない。制度やシステムにおけるチェック機能の重要性は、その機能が過不足なく動くために必須である。民主主義でも国家でも会社でもプログラムなどでも、およそチェック機能が不十分なところでは制度やシステムは脆く崩れ去るしかない。

今回の一連の不祥事では、たいてい、このチェック機能のところが破綻している。もっともあからさまな例で言えば、日大で内田氏が運動部を統括する保健体育審議会の局長職にあったことである。管理する方とされるほうが同一人物であれば、監査機能が働かないばかりか、制度やシステムを意図的に破壊したに等しい。制度やシステムがきちんと整っていても、骨抜きにする運用法である。このことは、銀行など他のところ大なり小なり同じである。

ということは、人の心を育てなければならない。職に対する矜持、技術に対する誇りといったものは今こそ必要とされている。宗教が崩壊したと言われているが、今後は宗教的な何かが興隆してくると思っている。なぜなら、多くの人々が今、住みにくさを感じていると思うからだ。

名誉が重んじられる社会に

8月6日に投稿した記事に関連して、今日8日の読売新聞に同様の趣旨の記事が載った。「時代の流れに逆行」との批判もあろうが、実際の医療現場で女性医師の職場離脱が問題であると指摘した小欄の記事を追認してくれる記事である。

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しかし、その後の報道を見ていて、1つ付け加えたいことが出てきた。文科省前局長の息子を一般入試で不正合格させていたこと、卒業生の子息を同じく不正合格させていたことである。これは純粋に大学の綱紀の問題である。前回の記事では日本大学の場合とは異なって、大学の不正ではなく社会の問題と断じて、大学側を擁護していた側面があった。これを訂正しておきたい。

官僚にしても大学にしても、道徳が崩壊している。社会的にも欠けていると感じないこともないが、官僚や大学にはより高い道徳観が求められると個人的に思うところがあるので、なおさら残念な思いを禁じ得ない。

官僚は天下国家を論じる滅私奉公でなければならず、大学関係者は知識階級として社会を指導する責務から、世間から離れた清廉さが必要である。官僚は金で動いてはならず、己の栄耀栄華を求めてはならず。知識人は世間知らずと評されるほどに純粋に理論を追求して社会モデルを提唱していけばよい。

僕自身はこんなふうに古くさく考えているのである。学問は仮定や仮説から始まる。世間の現実から隔絶しているくらいでちょうどよい。下手に現実的になるなら、学者としての生命を終えてしまうであろう。現実との擦り合わせは実務を担う官僚の仕事である。そこに批判を加えてチェック機能を果たすのはジャーナリストの仕事である。それぞれが矜持を持って気高く職務に携わる世の中が僕の考える理想である。

今の世の中のように、矜持も責任感も道徳も失われたのは、資本主義社会における職業選択の自由が影響している。普通教育の普及と言い換えてもよい。つまり、官僚も学者も金儲け・出世の手段として見られているのだ。金を追求しているし、権力が金を生み、金を失えば権力を失うという不安定性、流動性が不正を生む一端であると思っている。

もちろん、身分制の固定社会がよいと言っているのではない。言いたいことは道徳教育や情操教育、気高い志を育てる教育がもっと注目されてもよいということである。多様性を認める社会だからこそ、お金以外のモノサシを認める土壌が必要である。権力やお金以上に名誉が重んじられる価値観があってもよいだろう。いや、むしろ、AIの登場によって、金儲けの無視できない領域でAIが侵食してくる以上、人間こそが出来ることとしての価値判断ができることの重要性を喚起したい。

問題の本質

東京医科大学の入試において、女子受験生や3浪している受験生に対して一定の得点操作をしていたことが発覚した。試験は公平に行なわれることが大前提であり、これに対する大学側の対応に非難が集まっている。大学からの反論は、女性医師は職場離脱をしてしまうことであり、医師不足を招かないための処置であるというものである。

もちろん、こうした世間の批判は当然である。しかし、この見方は些末な端に注目しすぎている。この入試問題が存在した問題の根本は、大学の不正ではない。日大フットボール問題とは問題の本質が異なる。この問題の本質は、日本の労働問題であり、さらには医療問題である。

たしかに、一部テレビ報道にあるように、「女性が働きやすい環境を作るべき」ということには一定の理解が出来る。1985年以来の女性の社会進出(男女雇用機会均等法の成立)に伴って、女性が働きやすい環境が徐々に整い始め、また少子化対策に伴ってワーキング・マザーや妊娠・出産後の職場復帰も支援されてきている。そんなところに今回の東京医科大学の事件であるから、時代の流れに逆行しているとか、あり得ない差別であるという批判が起きている。

しかし、実際の現場では苦しい状況なのも確かである。医療現場ではなおさらであろう。人の命を預かる現場において、たとえば、その日に予定されている手術があったとして、生理が始まったことによる職場離脱は誰が埋めるのであろうか。あるいは、採用計画に基づいて配置されている職員が妊娠による職場離脱をした場合、すぐに人員補給が出来るわけでもない。とりわけ、医師のような高度な専門職においては厳しいだろう。それだけの余剰人員を抱えられる病院は少ないだろう。もちろん、妊娠は女性だけで出来るものではなく、男性の側にも共同責任がある。

東京医科大学をめぐる批判は、理想論である。そして、東京医科大学の言い訳は事実に対する厳しい現実論である。実際に医者がいなくなって困るのは我々である。その時、家庭を犠牲にしても仕事に責任を持ってしろと迫るのであろうか。理想論は分かる。あるべき姿が何かも充分に踏まえている。その上でなお、目の前の現実に対処している。これが東京医科大学の置かれた立場である。だから、社会としての取り組みは、医師不足という医療問題へ真摯に取り組み、労働問題としての労働市場への改革である。そうすれば、東京医科大学の不正は発生する余地を失い、自然と消滅する。

問題の本質にあるものに手をつけずに表面だけで物事を改革してしまうことは、その後にやってくる大きな社会的不利益を生みかねない。そうなってからの対処では、医師のような高度専門職の育成は間に合わない。東京医科大学が主張するような女性医師の職場離脱を防ぐ手立てをするほうが先である。そして、これは一大学法人に出来ることではない。社会全体として取り組まねばならない。

最後に、東京医科大学は私立大学なんだし、どのような学生を望むのかも自由に決められるはずだ。だから、受験前に今回のような女子受験生や浪人生に不利となる採点方法を採用していると公表していればよかったのだ。これが差別に繋がるというならば、東京男子医科大学としてしまえば済む話である。東京医科大学には担保されるべき公平性を確保しなかったところにのみ問題がある。

人文諸科学を学べ

最近、IoTやAIについて学ぶ機会があり、なんとなく自分の中でイメージが固まってきたので、今回の記事ではそれを記しておきたい。

今、世界は第4次産業革命の中にいるとされている。第4次産業革命という言葉自体は、ドイツが2012年から打ち出している技術戦略「インダストリー4.0」を日本語化したのが始まりであるが、その前に、第4次産業革命に至る道のりを簡単に俯瞰しておこう。

第1次産業革命では「蒸気」という新しい動力が出現した。続く第2次産業革命では「電気」と「石油」による大量生産が実現し、第3次革命では「コンピューター」が登場して自動化が進んだとされる。そして、第4次革命ではさまざまなモノがインターネットに繋がり、それを「AI」が制御するようになると言われている。

実際、Google Homeや自動運転車などの実用的な実現に触れ始めており、第4次産業革命の舳先にいることを実感できる。しかし、第1次~第3次までは「人」が中心にいたこと、そして新たな動力を得て新たな産業が生まれたという特徴を持っている。機関車はそれ以前になかった。自動車も電車もそれ以前にはなかった。コンピュータはそれ以前にはなかった。つまり、開発という意味での「ものづくり」は継続してあり続けたのである。

しかし、第4次産業革命では、新たに何かを生み出してはいない。第1次~第3次までで「人」が担っていた「作業」を「AI」が取って代わったに過ぎない。既に発明されている自動車や機械を、既に発明されているコンピュータが制御するだけなのである。物質的に新しいものが登場していない。登場したのはソフトウェアなのである。人間の頭脳に相当するプログラムなのだ。第1次~第3次までは操作する制御装置として「人」が必要であった。

ここで、第4次産業革命では「人」が不要になるという議論が出てくる。確かに、たとえば自動運転車が日常になれば、タクシーやバス、果ては電車の運転士も不要になる。あちらこちらで「人不足」を解消する処方箋が、一方で失業者を大量に生み出すことにも繋がってくる。なんとも皮肉なことである。しかし、失業にならず、ますます需要が高まる人材も一方で存在する。

それは、AIに出来ないことをするということに尽きる。すなわち、交渉・妥協を含むコミュニケーション術を持つ人材である。確かにAIは最適解を導き出すだろうが、人間社会はそれほど合理的ではない。現実的な施策としては、次善の策を採ることもあるだろうし、相手との交渉によって妥協をすることも必要である。また、ある価値観によって判断や決断をする必要も出てくる。これらは今のところ、AIが出来る領域ではない。

したがって、コミュニケーション術や確固とした哲学・思想を持っていることが必要である。これが21世紀に人間が担う領域となろう。心理学や交渉術、レトリック、哲学や思想などの人文科学に長けていることが重要な時代になったと言える。「IT土方」なる言葉は、ITに携わることが保守・開発の技術屋に過ぎないというニュアンスを含んでいる。今後、いわゆるホワイト・カラーとして生きるためには、人文諸科学の能力を身に付けなければならないだろう。

餅は餅屋へ

池上彰氏が6日、『文春オンライン』(文藝春秋社)のコーナー内で、ニュース番組に芸能人が出演していることについて苦言を呈した。30代会社員から「最近はテレビのワイドショーや報道番組にジャニーズ(事務所所属のアイドル)をはじめ、たくさんの芸能人が出ている。芸能人が報道に大きく関わっていることについて、どう考えているか」という質問が寄せられ、池上氏は、個々の番組の方針についてコメントすべき立場にないと前置きしたうえで、以下のように答えているので、コメントに沿って意見を付していきたい。

「ニュースを伝えたり、解説したり、コメントしたりする役割を芸能人が務めることには違和感を禁じ得ない」と指摘し、「人気タレントが画面に出ていれば視聴率が稼げるだろうという、さもしい発想が透けて見える」と批判。さらに「聞き手に芸能人がいる演出はありだとは思いますが、芸能人がニュースを伝えるのは国際的に見て日本ならではの奇観」とした。

僕自身も、ジャーナリストや元知事などの政治家や元官僚が学問的背景もないのに講師ではなく教授として大学の教壇に立つことに違和感を禁じ得ない。そうした「実務家」が教壇に立てば少子化時代に学生が集まるだろうという、さもしい発想が透けて見えるからだ。「実務家」が専門学校にいるのならばともかく、学問の府に我が物顔でそれらしく時事を語り、論文指導も出来ない様子は奇観である。

「ニュースを伝えるのは現場取材を積み重ねたジャーナリスト。関心のなかった芸能人にカンペを読み上げさせるのは不思議な光景」と、キャスティングに苦言を呈しつつ、「日本のテレビ界はプロの仕事はプロに任せるというルールが確立していない。ニュースはニュースのプロが伝えるべきだと思っている」と結論づけた。

まさしく大学で学問を教えるのは学問的修行を積んだ学者。学問的系統も持たずに刹那的な現場の連続に接したジャーナリストがコメントを寄せるという講義は不思議な光景である。日本の学府にはプロの仕事はプロに任せるべきだというルールが確立していない。学問は学問のプロが教えるべきである。もちろん、素養や教養として視野を広げるという意味で、学府に現場の情報を入れること自体は賛成である。この意味で、非常勤講師職・常勤講師職がある。講師は教授陣ではない。

ところで、素晴らしいコメントを『文春オンライン』に残した池上氏の経歴を最後に紹介しておこう。出典はWikipediaである。

1973年3月 - 慶應義塾大学経済学部卒業。
1973年4月 - NHKに記者として入局。
2005年3月 - 定年を待たずNHKを退職。以後、フリーランスジャーナリスト
2009年4月 - 信州大学経済学部特任教授に就任。
2012年2月 - 東京工業大学リベラルアーツセンター専任教授に就任。
2014年4月 - 愛知学院大学経済学部特任教授日本大学文理学部客員教授に就任。
2015年4月 - 名城大学特別講師に就任。
2016年3月 - 東京工業大学定年退職。
2016年4月 - 名城大学教授、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特命教授、立教大学グローバル教育センター客員教授に就任。

他山の石と成せ

昨日のブログをアップしている時と同じくして、日大の内田監督と井上コーチの会見が行なわれていた。それにしても、ひどいもので、昨日のブログで予想したように直接的に学ぶことはなかった。しかし、「過ちて改めざる、是を過ちという」という論語の言葉を地で行く会見を「他山の石」として学んでみたいと思う。

まず、内田監督の「信じていただけないと思うんですが」という前置きはいただけない。釈明会見という性質を理解していない。最初から理解していただくという姿勢が欠如し、開き直りとも受け取れる。ここで「釈明」会見と記したのは、本人たちにとって「謝罪」会見ではなく、世間の誤解と中傷に対する言い訳、つまり「釈明」を中心に据えた会見に思えたからだ。

さらには、井上コーチが人身御供にされたとの印象がぬぐえない。内田監督を守るために、井上コーチが全部背負っていくと、彼の体育会系そのままの話し方を見ても、体育会系が陥りがちな誤った忠誠心が発露したという印象しか残らない。後味は非常に悪い。30才の井上奨コーチが62才の内田正人監督を自らの人生を犠牲にしてかばったのではないかと邪推してしまう。「前途ある有望な若者」の人生を壊した定年間近な「先輩」の身勝手である。井上氏がコーチを辞任する一方で、内田氏は進退を大学に預け、一時謹慎するという。日本人の美徳、桜の散り際とは対照的である。

また、彼ら2人とも「正直」という言葉を連発しすぎているようにも感じた。この言葉を言う必要があったというのは、よく見れば「信じてもらえない世論」を感じていたからとも言えるが、穿って見れば「嘘つきだから」とも言える。人は後ろめたいこと、嘘を付いている自覚があるときには、信じてもらおうと冗長になるものだ。今回の「正直」という言葉の連発は、「正直でない」からこそ強調する必要のあった、嘘を糊塗するものに聞こえた。言動が嘘にしか見えないから、言葉で「正直」であることを補足した。本来は言動で「真実」を感じてもらわなければならない。

この意味で、「誠実」とは言葉にせずとも「正直」が伝わるものでなければならない。内容が悪いことでも、都合の悪いことを認めて「正直」に話せば、その姿勢は誠実と映るのである。

なお、今朝、内田監督が日大病院に入院したとの報道に触れた。心や身体の不具合以外でも、都合の悪さでも入院できるが、それが系属(系列)の日大病院というのも印象がよくない。悪手ばかりをこれでもかとばかりに打ってくる。そして、会見時の司会者(広報担当者)の仕切りもひどいものであったが、日大理事長がマスコミに追撃取材された時の理事長の態度も驚くものであった(この時期に繁華街を歩いていた)。「私は関係ない。私は相撲部だ。知らないよ!しつこいね!大学と部は別!」と反応したのだ。日大関係者の質は、これで推して測るべしである。最高責任者の発言である。麻生さんでも、把握しきれない一末端役人の不祥事に関係ないとは言わなかった。

それにしても、森友問題、加計問題、そして今回の事件の取材を見るに、マスコミは捜査機関かと見紛うほどである。マスコミの逸脱した正義感は毒でもあるということもまた、付言しておきたい。