学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ベクトルの混在した世界

「低欲望社会」と言われるようになって久しい。この言葉は2016年頃、経営コンサルタント大前研一さんが名付け親のように記憶しているが、「若者の○○離れ」に代表されるような現象を指す。そして、僕はこれが従来の経済学が輝きを失う原因でもあり帰結でもあると思っている。

まず、根本として、「低欲望社会」は、人々が欲望を持たなくなった帰結として生起された社会ではなく、欲望を持てなくなった、または欲望を持たないことを強要された帰結として生起した社会であるという理解が僕の前提にあることを確認しておきたい。

我々の生きる資本主義社会は「欲望」を追求し、飽くなき満足を追い求める人々の存在を前提としている。これは人間という生物への深い洞察であると思うし、誰かよりもどこかで優れていたいという人間存立のアイデンティティにも関わることだろうと思う。だから、これを前提とした経済体制は、一見すれば揺らぐことがないように思う。

ところが、経済的停滞が長く続いたことで、人々が欲望を持つことにブレーキがかかってしまった。資本主義社会であるからには、行動するのにお金がかかる。生きるのに必要な金銭を確保したら、なるべくお金をかけないような生活を強いられる。こうして我慢を重ねて、人々は欲望を抑えつけるようになったのである。そして、これがさらなる経済低調を招き、原因と帰結が卵と鶏のような循環に陥っていく。

それでも、人間の欲望に際限がないことは、従来の経済学がこれを前提とした妥当性から見ても、真理である。しかし、成功や満足が金銭的多寡と直接的に結びつくような価値観にあっては、人々の欲求は満たされることがない。このディレンマにあって、人々は欲望に無反応な虚無主義になるか、金銭とは別の価値観を探すことになる。前者が「低欲望社会」と称されるものであり、後者は、たとえば国民総幸福量(GNH:Gross National Happiness)というような指標の登場である。

江戸時代初期にあっては、名誉と品格(身分にふさわしい言動:親方が弟子の面倒を見るようなことを含めての言動的な縛り)が金銭よりも優先したが、江戸中期以降、貨幣経済の浸透によって徐々に金銭的価値が幅を効かせるようになっていった。衣食住足りてこその名誉と品格であり、餓死してまで名誉を貫くようなこと、名誉を重んじて死を選ぶことが愚かと評されるようになった。こうした長きにわたる金銭的価値観の支配という伝統を持つ以上、GNHのような新たな価値観で生きることはなかなかに難しい。

とはいえ、経済的成長が短期的な処方箋として望めない以上、経済成長ばかりが目標ではないという「縮小社会論」や「低欲望社会論」が日の目を見るようになっている。ここに輪をかけているのが、「AI社会論」である。稼ぐことはAIに任せて人はもっと自分の時間を大切にしようというような「働き方改革」の根本思想もまた、稼ぐことよりも他に何か大切なものがあるという、価値観のパラダイムシフトである。

そして、資本の蓄積により人々が労働から解放され、共産主義社会というユートピアが訪れるとのマルクスの希望は、今やAIが人々に取って代わって労働をし、資本を蓄積し続けていくことで実現可能性を示している。ネオ・コミュニストはまさに21世紀の「資本論」を描こうとしている。

現代という時代は、金銭的価値観が支配する前の伝統的価値観の想起と、資本主義の次の世界論とが混在し、混迷としている。過去へ伸びるベクトルと未来に伸びるベクトルという、2つの正反対を向いているベクトルが混在している状況である。まさに本ブログの副題が示す「ポスト~」の時代であり、過去の経験を拠り処としたり、新しい未来を夢想したりして、「**時代」と規定できるほどはっきりとした特徴を持つ社会ではない。

しかし、逆に言えば、こうだと自分の中で信念のごとく抱いて進めば、実現しやすい時代と言い換えることも出来よう。明治維新の時と同じように、創造と変革の時代における過去と未来の同居状態なのである。ちょんまげが散切り頭に、着物が洋服に、下駄が靴に変わるほどの、日常レベルでの大変革である。だからこそ、「立志伝」や「Boys, be ambitious!」同様の自己修養、自己研鑽が、明治維新時と同じように求められている。視野を広く持ち、制度疲労を起こしている現在のシステムに依存したり頼ったりすることなく、自らの足で立ちたいと願う。

完璧ということ

完璧主義者に安穏は訪れない。でも、完璧主義者には憧れる。なんせ仕事も遊びも完璧なのだ。とはいえ、しょせんは人間のすること。人間のすることに真の完璧ということは存在し得ないだろう。だから、人間のすることに完璧という場合、神学的・哲学的・思想的な絶対の完璧ではなく、相対的に「比較的マシ」なものを完璧と捉えるようにするとよい。

その「比較的マシなだけ」を手に入れるには、まず第一にいろいろな状況をシミュレーションできる「想定力」が必須である。これはいくつものケースを想像する力である。この数が多ければ多いほど比較するものの数が増えるために「完璧度」が増す。2つしか比べるものがない場合と、5つあるものの場合では、当然、5つの場合のほうが完璧度は高い。

この想定においては、悲観主義的になるとよい。つまり、最悪のケースに備えるのだ。物事を悪いほう悪いほうへと考えていく。というのも、想定よりも事がうまく運んでいく場合には何の問題もないからであり、想定よりも悪いほうに事態が転んだほうが対策なり対応なりを迫られ、この対策・対応に失敗すると完璧から離れていくということになるからだ。どんな悪い事態になっても落ち着いて対策を立て、対応できることが、人間の行動における完璧を意味するのである。

昔からの言い方を借りれば、「石橋を叩いて渡る」ということに通じる。壊れるはずのない強固な石の橋を、一応叩いて安全性を確かめて渡ることから、用心し過ぎるほど用心深くなることを指す諺だが、これが僕の考える完璧である。もっとも、この諺は慎重すぎる人や臆病すぎる人に対して皮肉をこめて使う場合もあるが、石橋を叩いても渡らないということがなければ、慎重すぎるとか臆病ということには当たらないだろう。

慎重すぎるとか臆病との誹りを避けたいならば、この石橋を叩く作業を人前でやらなければよい。夜のうちにこっそりと石橋を隅々まで確認し、昼間、衆目の前では堂々と足音を立てて渡ればよい。陰での努力を尽くせということだ。もちろん、陰での努力は人に認められるものではないから、成果が出ない限り、第三者から承認されることはない。成果が出るまでは臥薪嘗胆である。

さて、この石橋を叩くということだが、ここでの注意は「情報は命」ということである。どれだけ多くの情報を持っているかということは視野の広さに繋がり、視点の多さに繋がる。つまり、想定(シミュレーション)の数が増えるので、「比較的マシ」というときの「比較対象」が充実しているのである。検討することが下手な人は、たいていは「情報は命」を軽く見ていることが多く、「このくらいでいいだろう」と勝手に天井を決めてしまう。もちろん、情報収集は際限がなく、どこまでも情報収集に走ることが出来る。そうすると、情報ヲタクに堕し、本末転倒である。どこかで止めなくてはならない。これが神ならぬ人間の「完璧」の限界なのであろう。

では、この「天井」はどこに設定したらいいのだろうか。天井の設定に必要になること、すなわち、「比較的マシなだけ」を手に入れる第二の力は、分析枠組みを持つことである。分析枠組みとは、簡単に言えば物事をパターン化してカテゴライズできる力である。一定の傾向を把握し、それらを分類できる力である。この過程では抽象化をしているわけだが、抽象化を通して多くの物事をまとめていくことが出来るようになる。こうして、情報を集めていく中で、新しいパターンを見いだせなくなったとき、情報収集に区切りが付くようになる。そこが天井である。

情報を集め、抽象化を通して分類し、現象様式をまとめ、それらを比較検討して到達するところ、そこが人間における完璧と言えよう。ここまですると、よほどのことがない限り、「想定外」は起きない。しかし、それでもなお、「想定外」は起きる。これが人間の限界でもある。だから、「完璧主義者」には「想定外の想定」を探し続ける強迫観念にさらされ、安穏とした日々が訪れなくなる。だからこそ、人間であることを受容して、開き直ればよいのである。

これだけの想定をしてもなお想定外があるというのは、自分以外の人にも想定が出来ていないことだと開き直るのである。これが独善的でない限り、または想定を多くしていることが周囲に知られている限り、または相手が自分よりも多くの情報や視点を持っていると知っていれば、周囲はその人を「完璧主義者」と呼ぶであろう。

石橋を叩いて壊すという言葉もあるが、完璧主義者が慎重になりすぎて臆病になり、最後に壊してしまうのは、その人自身である。哲学者が精神を病むのは人間という開き直りをせずに完璧を追い求めるからである。自分が壊れないように、開き直ることが、人間における完璧主義者に必要な第三の力である。

まじめに真実を伝えるぞ。

胸襟を開いて真摯に、そして誠実に向き合えば、どんな人とも分かり合えるというのは人間関係における真実である。人の心に国境線はない。

北朝鮮金正恩氏が中国を電撃訪問した。彼と彼の国の首脳部は国際的に信用に値する。訪中で得られた合意や決意は必ずや実行され、国際社会の平和に大きく貢献するだろうと確信している。

外交に限らず、お互いを分かり合うためには、事実を元に話し合わなければならない。自分の都合を排除して、素直に事実に向き合わなければならない。そのためには、中立公平なメディアを活用すべきだ。たとえば、幅広く偏りのない情報を載せている新聞の購読がよろしかろう。

この新聞の報道の質には、国会議員によるお墨付きが与えられている。国会では新聞の記事に基づいて、国権の最高機関たる会議での質疑が行なわれ、非常に質の高い有意義な議論が連日、展開されている。国民の代表者たる国会議員が、自らの検討を加えることなく、無批判的に記事を国会に持ち込めるほど、新聞報道の質は十全である。だから、国会論戦には多くの国民が期待を寄せざるを得ないだろう。議論の見本ともいうべき国会での論戦は、これから始まる中高等教育でのアクティブ・ラーニングでも教材として活用していくべきである。

もっとも、多くの市民がデモに参加している現況を見れば、民主主義の興隆・発展は疑いもない事実だ。運動家ではない一般市民がこれだけ多くデモに参加するということは、とても喜ばしいことである。

新年度が始まる今日の午前中、こんなことを考えた。新年度が始まる今日この日でなければ、こんなことは考えもしなかったであろう。今日は特別な一日である。投稿された当日にこの記事を読まなかった人は、ぜひ日付を確認してほしい。

順番を間違えるな

科捜研の女」200回記念スペシャル「200の鑑定」(2018年3月15日放送)は、昨今の働き方改革ブラック企業、残業などの労働を巡る問題に対する番組からの1つの回答であったように思う。

番組では、日野所長が働き過ぎによって倒れたことがきっかけとなっている。実際には高血圧、肥満、コレステロールも原因となっているが、連続勤務が10日間ほど続き、そのうちの5日間で1日の労働時間が18時間を超えている。これを日野所長の奥さんが公災として申請したことで、悲劇が起こる。警務部長によって勤務時間の徹底が図られ、捜査中であっても捜査員や鑑定士が交代し、誤った結果を導き出してしまったのだ。事態はすんでのところで真実に辿り着いたが、近畿管区警察局の主任監察官が調査に訪れた。

ここでの主任監察官と警務部長の遣り取りは、どちらも正義で、正義vs正義の戦いの判定の難しさを視聴者に伝えた。主な遣り取りを書き出してみよう。

 

監察官『個人の使命感を断ち切らせるようなやり方は間違っている。』

警務部長『個人の使命感に頼ることは問題だと思う。それで倒れてしまったら使命感どころではない。そうしたやり方は捨てるべき。』

監察官『それでは、捜査能力が落ち、救われない人を作ってしまう。』

警務部長『捜査員やその家族が救われない被害者になるよりもいい。』

監察官『捜査員やその家族の権利より、被害者や被疑者の権利を優先すべき。それが私の信念です。』

警務部長『被害者のために警察官が命を縮めるような捜査は間違っている。それが私の信念です。』

 

最後は信念と信念の戦いであり、どちらも自らの仕事に誇りと使命感を持ち、かつプロ意識・職人意識の高い人たちである。どちらかに軍配を上げることはきわめて難しい。監察官は組織人として、また、警察という社会における役割からしての正義論を述べる一方で、警務部長は人事・労務担当として、警察も民間と同じ一組織であるとの立場からの正義論である。警察は特殊な仕事(労働基準法の適用外)でありながら、やはり「普通の人間」の集まりである。

しかし、これに対して、番組の最後で日野所長が1つの回答を示している。この回答が印象的であった。日野所長曰く、

①合わない人と働く(人間関係)、②合わない働き方で働く(業務内容)、③長い時間働く(労働時間)の3つのうち、もっともストレスを感じるものはどれだと思う?私は①人間関係だと思う。だから、まずは人間関係をしっかりと作り、業務内容を少しずつ変える。最後に労働時間に手をつける。たとえ労働時間が短くなっても、人間関係や業務内容がシビアになれば、人は身も心も壊してしまう。順番を間違えてはいけない。

そして、だから組織には「この3つをゴチャゴチャにする人や急激に変えようとする人を絶対に入れないこと」が大切だと説いている。革命のような劇的な変化に馴染めない日本人に合った方法ではなかろうか。そして、きわめて合理的で現実的な対処だと思う。番組では、②と③をそれぞれ優先した考え方で軋轢が生じる場面を描いた。そして、警察関係者からの聴取のシーンでは②と③を優先するあまり、①を疎かにしたという反省が随所で回想された。この構成こそに今回の番組の主張があるのだろう。

残業改善を推進したり、プレミアム・フライデーを導入しようとしたり、政府が働き方改革を推し進めようとしている一方で、現場では「そんなこと言われても」と現実が追いついていないことを嘆いている。こんな現状に一石を投じる社会派な番組であったと思う。

討論の授業に取り入れてみたいと思う一方で、まだ現実社会を知らず、理想論と杓子定規を持ち出す学生には、時期尚早なテーマだとも思う。残業に苦しみ、仕事を休めないと使命感に燃えつつ、大きな疲労感を抱えている社会人とともに、この問題は討論されるべきだろう。

今回の投稿では、「~する一方で、かたや~」という書き方を意識的に増やしてみたが、現実世界はこうしたディレンマ、矛盾、葛藤に溢れている。どちらが正しいのかではなく、どちらも正しいのだ。こうした「宙ぶらりん」状態を泳ぎ切る泳力を養うことこそ、大学教育で出来ることではなかろうかと思った次第である。

言葉の持つ威力

今日、職場で次のような言説を耳にした。

左利きの人は13人に1人。AB型の人も13人に1人。そして、LGBTの人も13人に1人。LGBTの人は決して稀な存在ではない。

これを耳にしたとき、口には出さなかったが感じたことがある。左利きは1種類、AB型も1種類なのに、LGBTだけ4種類じゃん、と。つまり、レズの人は左利きの人やAB型の人より4倍も見つけづらい。同様にゲイの人、バイセクシャルな人、トランスジェンダーの人も、である(実際にはL・G・B・Tの存在割合が等しいわけではないので、個別に勘定して4倍というのも正確な表現ではない)。LGBTを「性的少数者」と1つに見なすのなら、LGBTへの偏見と受け止められそうだが、純粋に言葉の問題としては、4種類と言わずにサドやマゾ、あるいは特殊な性癖を持つ人も含めることも可能である。

また、左利きとまとめずに「足で食べずに手を使って食べる人」とか、AB型と言わず「なんらかの血液型を持っている人」とした場合、確率はものすごく高くなることだろう。つまり、冒頭の発言は比較の軸を間違えているから、ナンセンスな発言である。比較するには同位のもの同士しか比較にならないのである。

誤解のないように繰り返して言っておくが、LGBTが云々という話はしていない。言説におけるカテゴライズがおかしいと言っているのだ。カテゴライズを誤れば、その後に続く結論も、もちろん、ナンセンスである。論理展開をしていく上では、適切なカテゴライズが非常に重要な役を担っていることが理解できただろうと思う。

ところで、LGBTなる言葉の「発明」によってLGBTが存在したと言うことも出来る。僕が小中学生だった頃には、「セクハラ」も「モラハラ」も「アカハラ」も現象としてはあっただろうが、そうしたものは社会には存在していなかった。正確を期すれば、人々にそうした現象は認識されていなかったのである。同じように、「いじめ」の件数が増えたとか「鬱病患者が増えた」というのも、その存在を公に認識してカウントし始めたからであって、現象自体は今も昔も同じようにあったはずである。

他にも、「格差問題」について、「格差」自体は縄文時代からあったし、貧富の差は江戸時代のほうがよほど大きかっただろう。しかし、「問題」として認識されていなかった。封建制度下の身分制にあっては、「当たり前のこと」であり、「自明のこと」であったからだ。「格差」を「問題」として認識して初めて、格差は問題になったのである。

ある現象を言葉として捉えること。これだけで分析眼が備わるのである。この「言葉が持つ威力」は観察眼を鍛え、分析眼を鋭くさせるものである。だから、言葉に細心の注意を払い、可能な限り語彙を増やして表現力を磨いていくことは、知性を持つことに等しいのである。人は言葉に直せないものは認識できない。語彙や表現が少なければ、それだけ漠然と漫然と物事を見ているということになる。これでは気がつくことは出来ないし、まったく別のものを同じカテゴリーで見ることに繋がりかねない。

言葉の威力を認識し、言葉力を磨いていくことを強く勧めたい。

説明責任なるもの

2000年代に入った頃からであろうか、やたらと「アカウンタビリティ」なる経営学用語が日常生活に幅をきかせ、やがてカタカナでは通じにくいので「説明責任」と言い換えて、この言葉が横行してきたように思う。

話は少し逸れるが、「横行」という言葉が「秩序から逸脱した」という意味で用いられるところを見ると、日本社会では「縦」が正常な秩序なのであろう。「横に行く」ことは、マイナス要因として受け止められているのだ。「幅をきかせる」という言葉もまた、横方向への広がりである。

ということで、冒頭段落において、僕は「説明責任」なるものを好ましいと受け止めていないことを明らかにしたかったのである。これを今の日本社会で言うには少し勇気が必要だ。縦秩序である「上から目線」が忌避される状況にあっては、同等あるいは下位からの目線である「説明責任」こそが歓迎される姿勢であろう。僕の姿勢は、これに真っ向から対抗する姿勢であるからだ。

「教える」-「教わる」関係であるならば、上下関係は明確である。教える側は、その内容において教わる側よりも圧倒的優位に立っているからこそ、教えられるのだ。それを、「教育心理学でこのようになっているから、このように教える」だとか、「教育方法論でこのようになっているから、この手順で教えるのだ」とかというような「説明責任」を果たし、教わる側に納得して「いただいて」から教育を行なうものではない。

そもそも、学問でもスポーツでも、習得するなら苦を伴う。その苦に納得するならば、教わる側はマゾヒスト、ドMである。納得できない部分があるからこそ、強制力を働かせる必要もある。ここにおいて、「説明責任」なるものをしていられるものではない。だから、「説明責任」を果たすなら同意を得られるようなものに変える必要があり、教育は効果の薄い甘ったるいものになり、そこで教わる側は「客」になる。助長した客は手に余る。

一方で、「教える側」は、その内容において、圧倒的優位を確保しなければならない。そのための努力は並大抵ではないだろうが、だからこそ、「こうしなさい」と断定できるようになる。この相当な努力を放棄して「教える側」になるもっとも簡単な方法は、「説明責任」を果たして相手の同意を得、施す教育内容への責任を、その内容で素人である「教わる側」と分担してしまうことである。逆説的ではあるが、「説明責任」を果たすことで、責任の所在は曖昧になる。逆に言えば、「教える側」がプロでなくても、教えるという行為が出来るようになるのであるが、その質はいうまでもなく、下がる。

このことは、ここ数年の間、空転が続く国会、そして、その周縁である政治の世界についても、広く一般に言える。政党や議員はもはや「代表者」ではなく、一見すると言い訳にしか聞こえないような「説明責任」を観客である国民に一生懸命にするようになった。「代表者」というのは、「私はこうしたい」「私はこうするべきだと思う」と立場や意見を表明する者のことだ。その声が自分の声を代弁していると思えば国民はその人に投票する。これが代表制民主主義の姿である。

ところが、今での政治家は一生懸命に疑惑を追及し、不手際を詰り、不備を突く。つまり、野党は与党の「説明責任」を求めているだけなのだ。これでは、言論の府は成り立たない。彼らがしていることは検察なり警察なり、担当行政機関(実行部隊)がやればいいのであって、言論の府で議論を戦わせることと本質的にずれている。どうしたいのか、どうすべきなのかを語るからこそ、議論が始まるのであって、「説明責任」を求めるところに議論はない。

かくて、国民の代表たる議員に国民は代表されているとは感じなくなる。議員になることは、言い逃れに巧みになり、常に追求に戦々恐々としている状態に身を置くことである。これでは、まともな人間は議員になろうとはしない。教育界と同じく、「説明責任」なるものが質を低下させる現象はここでも起きてくる。

代表されていないと思えば、住民投票やら国民投票やらの直接民主主義に頼ろうとしてくる。代表制民主主義の限界説である。そこで、広く国民の間で議論をしようという流れも生まれてくる。最近流行のアクティブ・ラーニングだの大学入試へのディスカッション能力の導入だのという流れもそうである。しかし、アクティブ・ティーチングのないところ、自らの意見を正しいと押しつけるような立場や意見のないところに、そんなものは根付かない。形骸化するだけである。

だから、今こそ勇気を持って「上から目線」で「説明責任」を歯牙にもかけないような姿勢が必要なのだと思う。傲慢かもしれないが、そうしないと、クリエイティブな発想やら主体者・主人公としての自分の人生は手に入らないと思う今日この頃である。

民主主義は原初システム?

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今年の夏、文化人類学者のエマニュエル・トッドが新刊を出すという。今のところ、フランス語のものしか発売の告知がない。英語ないしは日本語でも発売されるとは思うが、秋以降になるだろうか。待ち遠しい。

さて、待ち遠しい理由であるが、発売に関するプロモーションを見ると、家族システムの歴史と民主主義の歴史も、ともに人類の歴史と同じくらい古い、つまり、両方とも原初からのものだという見解を示したという。そして、近年騒がれているリベラル・デモクラシー(自由民主主義)も同じくらい古く、権威主義体制や帝国主義体制から生まれてきたものではないと言い切る。

原初の家族形態が核家族だったとすれば、核家族はその利益を最高にするべく行動するが、それは個人主義的な価値観であり、これがリベラル・デモクラシーの萌芽であると看破する。家父長が核家族の利益を代表して公に出る。これがリベラル・デモクラシーの原型である、と。一定の説得力があるから、早く読んでみたいが、フランス語の書籍は無理なのが悔しい。

それにしても、これは、人口学者であったトッドらしい見方である。それと同時に、これまでの通説を覆すような提起である。従来からの伝統的な見方・視点、とりわけ政治学の分野からは出てこないような発想に思える。

ドラッカー社会学から経営学を生み、人口学者が政治学に取り組む。こうした学際知の成果、学問分野横断的な成果は21世紀らしい現象と思う。つまり、多様な価値観の存在を認めるということは、専門学問分野に門外漢を受け入れる精神的土壌があって初めて成り立つことだからだ。「素人」の新規参入は学問分野に新しい風を吹き込むことだと確認している。

一方で、従来からの伝統的な専門家が、それまでに築かれてきた知識の堆積に基づいて検証していくような体制が望ましいとも思う。新規参入を歓迎していく一方で、僕はやはり専門家の存在を軽視したくはない。ジェネラリストへの需要が高まる現状にあっても、スペシャリストの存在は欠くベかざるものだと思う。そして、ジェネラリストの存在は複数のスペシャリストによって集合的に形成されることが理想だと思っている。まったくの「素人」ではなく、自分の分野で専門家として学問的手法を知る人物が自分の分野外で活躍し、意見交換をし、発展させていくものこそが、本当の意味での学際知である。

この意味からも、トッドが夏に出版する本を心待ちにしている。