学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

まじめに真実を伝えるぞ。

胸襟を開いて真摯に、そして誠実に向き合えば、どんな人とも分かり合えるというのは人間関係における真実である。人の心に国境線はない。

北朝鮮金正恩氏が中国を電撃訪問した。彼と彼の国の首脳部は国際的に信用に値する。訪中で得られた合意や決意は必ずや実行され、国際社会の平和に大きく貢献するだろうと確信している。

外交に限らず、お互いを分かり合うためには、事実を元に話し合わなければならない。自分の都合を排除して、素直に事実に向き合わなければならない。そのためには、中立公平なメディアを活用すべきだ。たとえば、幅広く偏りのない情報を載せている新聞の購読がよろしかろう。

この新聞の報道の質には、国会議員によるお墨付きが与えられている。国会では新聞の記事に基づいて、国権の最高機関たる会議での質疑が行なわれ、非常に質の高い有意義な議論が連日、展開されている。国民の代表者たる国会議員が、自らの検討を加えることなく、無批判的に記事を国会に持ち込めるほど、新聞報道の質は十全である。だから、国会論戦には多くの国民が期待を寄せざるを得ないだろう。議論の見本ともいうべき国会での論戦は、これから始まる中高等教育でのアクティブ・ラーニングでも教材として活用していくべきである。

もっとも、多くの市民がデモに参加している現況を見れば、民主主義の興隆・発展は疑いもない事実だ。運動家ではない一般市民がこれだけ多くデモに参加するということは、とても喜ばしいことである。

新年度が始まる今日の午前中、こんなことを考えた。新年度が始まる今日この日でなければ、こんなことは考えもしなかったであろう。今日は特別な一日である。投稿された当日にこの記事を読まなかった人は、ぜひ日付を確認してほしい。

順番を間違えるな

科捜研の女」200回記念スペシャル「200の鑑定」(2018年3月15日放送)は、昨今の働き方改革ブラック企業、残業などの労働を巡る問題に対する番組からの1つの回答であったように思う。

番組では、日野所長が働き過ぎによって倒れたことがきっかけとなっている。実際には高血圧、肥満、コレステロールも原因となっているが、連続勤務が10日間ほど続き、そのうちの5日間で1日の労働時間が18時間を超えている。これを日野所長の奥さんが公災として申請したことで、悲劇が起こる。警務部長によって勤務時間の徹底が図られ、捜査中であっても捜査員や鑑定士が交代し、誤った結果を導き出してしまったのだ。事態はすんでのところで真実に辿り着いたが、近畿管区警察局の主任監察官が調査に訪れた。

ここでの主任監察官と警務部長の遣り取りは、どちらも正義で、正義vs正義の戦いの判定の難しさを視聴者に伝えた。主な遣り取りを書き出してみよう。

 

監察官『個人の使命感を断ち切らせるようなやり方は間違っている。』

警務部長『個人の使命感に頼ることは問題だと思う。それで倒れてしまったら使命感どころではない。そうしたやり方は捨てるべき。』

監察官『それでは、捜査能力が落ち、救われない人を作ってしまう。』

警務部長『捜査員やその家族が救われない被害者になるよりもいい。』

監察官『捜査員やその家族の権利より、被害者や被疑者の権利を優先すべき。それが私の信念です。』

警務部長『被害者のために警察官が命を縮めるような捜査は間違っている。それが私の信念です。』

 

最後は信念と信念の戦いであり、どちらも自らの仕事に誇りと使命感を持ち、かつプロ意識・職人意識の高い人たちである。どちらかに軍配を上げることはきわめて難しい。監察官は組織人として、また、警察という社会における役割からしての正義論を述べる一方で、警務部長は人事・労務担当として、警察も民間と同じ一組織であるとの立場からの正義論である。警察は特殊な仕事(労働基準法の適用外)でありながら、やはり「普通の人間」の集まりである。

しかし、これに対して、番組の最後で日野所長が1つの回答を示している。この回答が印象的であった。日野所長曰く、

①合わない人と働く(人間関係)、②合わない働き方で働く(業務内容)、③長い時間働く(労働時間)の3つのうち、もっともストレスを感じるものはどれだと思う?私は①人間関係だと思う。だから、まずは人間関係をしっかりと作り、業務内容を少しずつ変える。最後に労働時間に手をつける。たとえ労働時間が短くなっても、人間関係や業務内容がシビアになれば、人は身も心も壊してしまう。順番を間違えてはいけない。

そして、だから組織には「この3つをゴチャゴチャにする人や急激に変えようとする人を絶対に入れないこと」が大切だと説いている。革命のような劇的な変化に馴染めない日本人に合った方法ではなかろうか。そして、きわめて合理的で現実的な対処だと思う。番組では、②と③をそれぞれ優先した考え方で軋轢が生じる場面を描いた。そして、警察関係者からの聴取のシーンでは②と③を優先するあまり、①を疎かにしたという反省が随所で回想された。この構成こそに今回の番組の主張があるのだろう。

残業改善を推進したり、プレミアム・フライデーを導入しようとしたり、政府が働き方改革を推し進めようとしている一方で、現場では「そんなこと言われても」と現実が追いついていないことを嘆いている。こんな現状に一石を投じる社会派な番組であったと思う。

討論の授業に取り入れてみたいと思う一方で、まだ現実社会を知らず、理想論と杓子定規を持ち出す学生には、時期尚早なテーマだとも思う。残業に苦しみ、仕事を休めないと使命感に燃えつつ、大きな疲労感を抱えている社会人とともに、この問題は討論されるべきだろう。

今回の投稿では、「~する一方で、かたや~」という書き方を意識的に増やしてみたが、現実世界はこうしたディレンマ、矛盾、葛藤に溢れている。どちらが正しいのかではなく、どちらも正しいのだ。こうした「宙ぶらりん」状態を泳ぎ切る泳力を養うことこそ、大学教育で出来ることではなかろうかと思った次第である。

言葉の持つ威力

今日、職場で次のような言説を耳にした。

左利きの人は13人に1人。AB型の人も13人に1人。そして、LGBTの人も13人に1人。LGBTの人は決して稀な存在ではない。

これを耳にしたとき、口には出さなかったが感じたことがある。左利きは1種類、AB型も1種類なのに、LGBTだけ4種類じゃん、と。つまり、レズの人は左利きの人やAB型の人より4倍も見つけづらい。同様にゲイの人、バイセクシャルな人、トランスジェンダーの人も、である(実際にはL・G・B・Tの存在割合が等しいわけではないので、個別に勘定して4倍というのも正確な表現ではない)。LGBTを「性的少数者」と1つに見なすのなら、LGBTへの偏見と受け止められそうだが、純粋に言葉の問題としては、4種類と言わずにサドやマゾ、あるいは特殊な性癖を持つ人も含めることも可能である。

また、左利きとまとめずに「足で食べずに手を使って食べる人」とか、AB型と言わず「なんらかの血液型を持っている人」とした場合、確率はものすごく高くなることだろう。つまり、冒頭の発言は比較の軸を間違えているから、ナンセンスな発言である。比較するには同位のもの同士しか比較にならないのである。

誤解のないように繰り返して言っておくが、LGBTが云々という話はしていない。言説におけるカテゴライズがおかしいと言っているのだ。カテゴライズを誤れば、その後に続く結論も、もちろん、ナンセンスである。論理展開をしていく上では、適切なカテゴライズが非常に重要な役を担っていることが理解できただろうと思う。

ところで、LGBTなる言葉の「発明」によってLGBTが存在したと言うことも出来る。僕が小中学生だった頃には、「セクハラ」も「モラハラ」も「アカハラ」も現象としてはあっただろうが、そうしたものは社会には存在していなかった。正確を期すれば、人々にそうした現象は認識されていなかったのである。同じように、「いじめ」の件数が増えたとか「鬱病患者が増えた」というのも、その存在を公に認識してカウントし始めたからであって、現象自体は今も昔も同じようにあったはずである。

他にも、「格差問題」について、「格差」自体は縄文時代からあったし、貧富の差は江戸時代のほうがよほど大きかっただろう。しかし、「問題」として認識されていなかった。封建制度下の身分制にあっては、「当たり前のこと」であり、「自明のこと」であったからだ。「格差」を「問題」として認識して初めて、格差は問題になったのである。

ある現象を言葉として捉えること。これだけで分析眼が備わるのである。この「言葉が持つ威力」は観察眼を鍛え、分析眼を鋭くさせるものである。だから、言葉に細心の注意を払い、可能な限り語彙を増やして表現力を磨いていくことは、知性を持つことに等しいのである。人は言葉に直せないものは認識できない。語彙や表現が少なければ、それだけ漠然と漫然と物事を見ているということになる。これでは気がつくことは出来ないし、まったく別のものを同じカテゴリーで見ることに繋がりかねない。

言葉の威力を認識し、言葉力を磨いていくことを強く勧めたい。

説明責任なるもの

2000年代に入った頃からであろうか、やたらと「アカウンタビリティ」なる経営学用語が日常生活に幅をきかせ、やがてカタカナでは通じにくいので「説明責任」と言い換えて、この言葉が横行してきたように思う。

話は少し逸れるが、「横行」という言葉が「秩序から逸脱した」という意味で用いられるところを見ると、日本社会では「縦」が正常な秩序なのであろう。「横に行く」ことは、マイナス要因として受け止められているのだ。「幅をきかせる」という言葉もまた、横方向への広がりである。

ということで、冒頭段落において、僕は「説明責任」なるものを好ましいと受け止めていないことを明らかにしたかったのである。これを今の日本社会で言うには少し勇気が必要だ。縦秩序である「上から目線」が忌避される状況にあっては、同等あるいは下位からの目線である「説明責任」こそが歓迎される姿勢であろう。僕の姿勢は、これに真っ向から対抗する姿勢であるからだ。

「教える」-「教わる」関係であるならば、上下関係は明確である。教える側は、その内容において教わる側よりも圧倒的優位に立っているからこそ、教えられるのだ。それを、「教育心理学でこのようになっているから、このように教える」だとか、「教育方法論でこのようになっているから、この手順で教えるのだ」とかというような「説明責任」を果たし、教わる側に納得して「いただいて」から教育を行なうものではない。

そもそも、学問でもスポーツでも、習得するなら苦を伴う。その苦に納得するならば、教わる側はマゾヒスト、ドMである。納得できない部分があるからこそ、強制力を働かせる必要もある。ここにおいて、「説明責任」なるものをしていられるものではない。だから、「説明責任」を果たすなら同意を得られるようなものに変える必要があり、教育は効果の薄い甘ったるいものになり、そこで教わる側は「客」になる。助長した客は手に余る。

一方で、「教える側」は、その内容において、圧倒的優位を確保しなければならない。そのための努力は並大抵ではないだろうが、だからこそ、「こうしなさい」と断定できるようになる。この相当な努力を放棄して「教える側」になるもっとも簡単な方法は、「説明責任」を果たして相手の同意を得、施す教育内容への責任を、その内容で素人である「教わる側」と分担してしまうことである。逆説的ではあるが、「説明責任」を果たすことで、責任の所在は曖昧になる。逆に言えば、「教える側」がプロでなくても、教えるという行為が出来るようになるのであるが、その質はいうまでもなく、下がる。

このことは、ここ数年の間、空転が続く国会、そして、その周縁である政治の世界についても、広く一般に言える。政党や議員はもはや「代表者」ではなく、一見すると言い訳にしか聞こえないような「説明責任」を観客である国民に一生懸命にするようになった。「代表者」というのは、「私はこうしたい」「私はこうするべきだと思う」と立場や意見を表明する者のことだ。その声が自分の声を代弁していると思えば国民はその人に投票する。これが代表制民主主義の姿である。

ところが、今での政治家は一生懸命に疑惑を追及し、不手際を詰り、不備を突く。つまり、野党は与党の「説明責任」を求めているだけなのだ。これでは、言論の府は成り立たない。彼らがしていることは検察なり警察なり、担当行政機関(実行部隊)がやればいいのであって、言論の府で議論を戦わせることと本質的にずれている。どうしたいのか、どうすべきなのかを語るからこそ、議論が始まるのであって、「説明責任」を求めるところに議論はない。

かくて、国民の代表たる議員に国民は代表されているとは感じなくなる。議員になることは、言い逃れに巧みになり、常に追求に戦々恐々としている状態に身を置くことである。これでは、まともな人間は議員になろうとはしない。教育界と同じく、「説明責任」なるものが質を低下させる現象はここでも起きてくる。

代表されていないと思えば、住民投票やら国民投票やらの直接民主主義に頼ろうとしてくる。代表制民主主義の限界説である。そこで、広く国民の間で議論をしようという流れも生まれてくる。最近流行のアクティブ・ラーニングだの大学入試へのディスカッション能力の導入だのという流れもそうである。しかし、アクティブ・ティーチングのないところ、自らの意見を正しいと押しつけるような立場や意見のないところに、そんなものは根付かない。形骸化するだけである。

だから、今こそ勇気を持って「上から目線」で「説明責任」を歯牙にもかけないような姿勢が必要なのだと思う。傲慢かもしれないが、そうしないと、クリエイティブな発想やら主体者・主人公としての自分の人生は手に入らないと思う今日この頃である。

民主主義は原初システム?

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今年の夏、文化人類学者のエマニュエル・トッドが新刊を出すという。今のところ、フランス語のものしか発売の告知がない。英語ないしは日本語でも発売されるとは思うが、秋以降になるだろうか。待ち遠しい。

さて、待ち遠しい理由であるが、発売に関するプロモーションを見ると、家族システムの歴史と民主主義の歴史も、ともに人類の歴史と同じくらい古い、つまり、両方とも原初からのものだという見解を示したという。そして、近年騒がれているリベラル・デモクラシー(自由民主主義)も同じくらい古く、権威主義体制や帝国主義体制から生まれてきたものではないと言い切る。

原初の家族形態が核家族だったとすれば、核家族はその利益を最高にするべく行動するが、それは個人主義的な価値観であり、これがリベラル・デモクラシーの萌芽であると看破する。家父長が核家族の利益を代表して公に出る。これがリベラル・デモクラシーの原型である、と。一定の説得力があるから、早く読んでみたいが、フランス語の書籍は無理なのが悔しい。

それにしても、これは、人口学者であったトッドらしい見方である。それと同時に、これまでの通説を覆すような提起である。従来からの伝統的な見方・視点、とりわけ政治学の分野からは出てこないような発想に思える。

ドラッカー社会学から経営学を生み、人口学者が政治学に取り組む。こうした学際知の成果、学問分野横断的な成果は21世紀らしい現象と思う。つまり、多様な価値観の存在を認めるということは、専門学問分野に門外漢を受け入れる精神的土壌があって初めて成り立つことだからだ。「素人」の新規参入は学問分野に新しい風を吹き込むことだと確認している。

一方で、従来からの伝統的な専門家が、それまでに築かれてきた知識の堆積に基づいて検証していくような体制が望ましいとも思う。新規参入を歓迎していく一方で、僕はやはり専門家の存在を軽視したくはない。ジェネラリストへの需要が高まる現状にあっても、スペシャリストの存在は欠くベかざるものだと思う。そして、ジェネラリストの存在は複数のスペシャリストによって集合的に形成されることが理想だと思っている。まったくの「素人」ではなく、自分の分野で専門家として学問的手法を知る人物が自分の分野外で活躍し、意見交換をし、発展させていくものこそが、本当の意味での学際知である。

この意味からも、トッドが夏に出版する本を心待ちにしている。

言葉は品性

マーガレット・ヒルダ・サッチャー元英首相の父、アルフレッド・ロバーツが幼い娘によくこう言っていたそうだ。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

この言葉をサッチャー回顧録で知ってから、僕自身もこれがお気に入りの箴言になった。この箴言は「内容」について語っている。思考の中身、言葉の意味、行動の含意、習慣の特性、性格の固有性、運命の堆積性などにたいして、その質的言及をしているのである。しかし、最近はこうした箴言以前の問題が「知識人」から溢れ出ている。日本の知性の低下を感じずにはいられない。

事象に対する批判や反論は大いに結構である。議論を重ねることで人々は理解し合い、物事が改善され、不測の事態の可能性を下げてくれるからだ。人は誰1人として同じ考えや境遇をもたないからこそ、ここに議論の必要性が存在するのである。だからこそ、きちんと議論をしなければならない。

汚い言葉遣いで人を罵倒するようなマネは議論にはあってはならないことである。その話の中身に対して批判や反論がされるべきであり、その発信者に向けられてはならないのである。この議論の初心者にありがちな初歩的なミスが我が国で「知識人」を自称する人々の口の端を汚している。

一国の宰相を「アベ」と呼び捨てにし、「アホノミクス」「頭オカシイ」と蔑み、個人への攻撃が著しい。一部の著名人にしても何人かの野党議員にしても、こうした傾向がある。これがたとえ一国の宰相でなくても、議論の相手を「おまえ」「てめぇ」呼ばわりしたら、議論は成立しなくなるだろう。

語弊を恐れずに言えば、こうした罵詈雑言を伴った批判・反論には一顧だにしないことにしている。この批判・反論は、その対象たる相手をまったく貶めないばかりか、発言者を大いに貶めていると思う。内容で論理的に論破できないから、口汚く罵る。知性の欠落状況である。知性ばかりか、人としての品性すら疑わしい。

議論の前に、議論を成立させる言葉について、まずは品性を疑われないような言葉遣いをしなくては、人の耳を傾かせることは出来ないだろう。たとえ内容が正しくても、罵詈雑言では耳障りな雑音でしかない。

最後に『図解 フィンランド・メソッド入門』で紹介されている小学5年生たちが自ら設定した議論の10箇条を紹介して、今回の投稿を終えようと思う。罵詈雑言も「議論が台無しになるようなこと」である。

① 他人の発言をさえぎらない
② 話すときは、だらだらとしゃべらない
③ 話すときに、怒ったり泣いたりしない
④ 分からないことがあったら、すぐに質問する
⑤ 話を聞くときは、話している人の目を見る
⑥ 話を聞くときは、他のことをしない
⑦ 最後まで、きちんと話を聞く
⑧ 議論が台無しになるようなことを言わない
⑨ どのような意見であっても、間違いと決めつけない
⑩ 議論が終わったら、議論の内容の話はしない

「お金2.0」を読んで

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 今、ベストセラーになっている「お金2.0」を発売日に購入。「なるほど」と読んでいる間に、ビットコインが50%近く急落し、「おいおいおい」となった。印象深い読書となった。

この本を手にとってみようと思ったのは、「仮想通貨」なるものを胡散臭く感じ、中央銀行によるコントロールの効かない、無法状態の「通貨」なんぞ、一時の流行だろうと思いつつ、しかし、今現在の潮流なら教壇に立つ身にとって「知らない」では済まされないだろうなぁと思ったからだ。かなり斜めに見ながら、この本を手にしたことになる。

しかし、書店で手に取ってパラパラめくってみると、「買わなくてはならん」と思った。そこには「あまりにも既存社会の常識とは違うので、今の経済のメインストリームにいる人たちにとっては懐疑や不安の対象になりやすい」と書かれていたのだ。経済学が専門ではないが、そこそこ学んできた自負はあり、12月中旬に経済学者と「仮想通貨」について議論を交わした時に、これを経済学の中でどう位置付けるかと話し、位置づけできないねで終わっていただけに、見透かされているような気がした。

だから、この著者がこの新しい現象をどう位置付けるのかを知りたくて購入した。本書の冒頭でも述べられているように、この本は専門家向けに書かれたものではない。だから、やや薄っぺらいというか、物足りなさは残った。現象を感覚的に述べているからだ。ここは批判すべきところではない。なんせ著者が最初に断りを入れているところなのだ。

言ってみれば、叩き上げの人物が自らの体験や嗅覚を頼りに、それまでの体験を整理し、まとめたものである。そういうドキュメンタリーというか、新潮流をのし上がってきた人物伝として読むと面白い。

一言で読後感想を述べるとすれば、「仮想通貨」とはカギカッコ付きの通貨であり、通貨と表現するよりは「株」である。しかも、投機的なものである。パラダイム・シフトをしないといけないと思いつつ、把握の仕方は「既存社会の常識」に囚われたままであると反省している。しかし、そうとしか把握できない。ここがパラダイム・シフトの難しいところだ。

今後とも、アンテナを張って少しずつ既存の殻を破るよう努めていこうと思う。