学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

再生が求められるとき

先の5月21日の投稿(「論理と人情」)の中で、「ご退位検討をめぐる有識者会議での発言に陛下がショックを受け、不満を示された」との毎日新聞報道が宮内庁によって否定された。そのような事実は全くないということだった。

僕は前回の記事を書いた段階で、陛下が政治的発言をすること自体に反発を覚え、陛下のお気持ちを忖度せず、やや冷たく引き離して投稿記事を書いた。陛下のご退位表明においても違和感を覚えたが、それで今回はより政治色を増したのだろうかとの危惧からである。陛下の政治発言を受容することは、一見すると人権への配慮であるが、それは同時に陛下に政治的責任を伴うということであり、慎重になるべき事案である。

現在、皇室は日本政府(行政府)に大政を移管しているのであり、皇室に関する制度についてとはいえ、憲法皇室典範という法律についての政治介入を許すということは、部分的にではあれ、平成の大政奉還となる。これは現行制度を著しく変えるものであり、蟻の一穴になると僕は思う。だからこそ、強く否定されるべきで、この強い否定こそが皇室を存続させる道だと思っている。

とはいえ、「捏造報道」(こう表現することが不適切なら「フェイク・ニュース」となろうか)に振り回され、事実に基づかない記事による判断を下してしまったことは、素直に反省しなければならない。正直、今回の宮内庁の全面否定によって、ホッと安心し、安易な発言をするような人ではなかった。やはり陛下は深いお考えの人であったと安堵した次第である。

民主主義は情報へのアクセスが必須である。しかし、行政府が拡大し、専門分化した現在にあっては、1人1人の個人の力では調査にも分析にも限界がある。だからこそ、大衆民主主義の発達はマスメディアの発達は不可分・不可欠の要素である。国家権力に対抗し、主権者たる国民の権力を支えるという意味で、国の公式な制度には含まれないものの、第三の権力としての役割がマスメディアにはある(第一に国民、第二に国家機関である)。

にもかかわらず、国内を問わず、「フェイク・ニュース」という表現が政治家や国民の中にも浸透してきたことは、民主主義にとって憂慮すべき事態である。政治家が使用している限りは政治的な意図があるのだろうが、国民にも訴求力があって受け入れられているのだとすれば、これはかなりの程度、多くの国民が過去にフェイク・ニュースに接し、実感を持って受け入れられるものだという証左である。

かつてアクトン卿が「権力は腐敗する」とのテーゼを出したが、長い時を経て第三の権力としてのマスメディアもまた腐敗してきたのではないだろうか。今、書店では民主主義の危機を指摘する書物が相次いでいるが、国民の権力もまた腐敗しているという自覚の上に立ち、国民も国家機関もマスメディアも襟を正すべき時が来ているのかもしれない。

論理と人情

先帝陛下のご兄弟は、秩父宮様、高松宮様、三笠宮様がおられ、三笠宮様には寛仁親王殿下、桂宮様、高円宮様がおられたが、すでにお隠れになられた。今上陛下のご兄弟には常陸宮様(81)がおられる。皇位継承者は徳仁親王殿下(57)、文仁親王殿下(51・秋篠宮)、悠仁親王殿下(10・秋篠宮)、そしてさきほどの常陸宮様(81)である。

平成31年徳仁親王殿下が即位されると、皇位秋篠宮様、そして秋篠宮ご嫡男の悠仁親王殿下、常陸宮様と3人になる。皇位の安定継承のためには、悠仁親王殿下お一人にかかってきている。

さきのご退位検討をめぐる有識者会議では、保守派から「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」との意見が出されたことに、陛下がショックを受け、「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求め、「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」と不満を示されたと伝えられている。

僕自身は、有識者会議で出されたこの発言は、最低限のラインを示したものとして認識している。天皇天皇であるための必須条件ということである。続くこと(男系継承)と祈ることをしないのであれば、それは天皇としての存在意義を失うであろう。もともと天皇家天照大神の子孫であり、日本神道の頂点に立つ神官である。天照大神の血を継承すること、神道の神官として祈りを捧げることに天皇の本質があるとすることに異論はない。

しかし、戦後、「象徴天皇制」という制度が成立し、先帝陛下と今上陛下は、その在り方について試行錯誤を重ね、一人一人の国民と向き合い、その労苦をともにした上で国民の安寧と平穏を祈るという現在の姿を作り上げられてきた。2677年(皇紀・紀元前660年の神武天皇即位を紀元とする数え方)以来、天皇はその在り方を大きく変えてきており、その都度、適切な在り方を検討し、実践してきた。

その意味で、継承と祈りさえしていれば天皇であるという保守派の発言は、今上陛下が全身全霊を込めて取り組んできた「象徴天皇」の在り方を否定するものになる。しかし、そうした新しい天皇の在り方は、いわば質的向上であり、祈りという行為をただ祈るという空虚なものにせず、きちんと真に意味がある血の通った祈りにしようというものである。形骸化させず、国民に寄り添う形で中身を伴うものにとのお気持ちを示すことが、国民主権の時代にあって象徴天皇制天皇たる姿であるとの改革である。

とはいえ、先の保守派の発言が提示した継承と祈りが成立しなければ、形式的にですら後世に伝えられなくなってくる。「万世一系の継承」という伝統文化を次世代に繋げていけないのであれば、祈りがどれだけ質的に充実しても無意味になってしまう。なくなるくらいなら形式的にでも存在させたいという人々(保守派)がいても不思議ではない。そのための議論の時間の確保を、先延ばしでしかないが時間の確保をして、陛下の退位を認めないとしたのであろう。

これは陛下の人間性や人権を無視した考えである。しかし、象徴天皇制を定めた現日本国憲法天皇に人権を認めていない。天皇とは何かと定めて皇族を除外した上で、国民について述べるという順序を採っている。だから、皇族に職業選択の自由や居住移転の自由を認めていなくても「法的に」問題ない。こうした前提を受容している以上、さきの保守派の発言は非難一辺倒になるわけではない。人に不誠実でも法に忠実なのだ。法の遵守は近代国民国家の前提である。

よって、皇位の安定継承のためには手段を選ばず、側室を置くことも検討すべき課題である。いわゆる重婚だが、天皇家には国民に適用される法は適用されないので問題ない。これがダメだというのなら、現代の技術をもってして体外受精でもなんでもすればいいと僕は思う。天皇家の第一の仕事は男子をなすこと、次いで祈ることである。どのように男子をなすか、どのような祈りとするかは質的な問題でしかない。

こう書いてくると、血も涙もない非人間的な思考をしているなぁと、つくづく思う。

楽観的に目標を見て、悲観的に手段を考える

昔、自分の影響力が自分のみだった頃、あるいは友達と対等に接している頃、僕の発言は自由気儘に思った通りを言っていれば済んだ。ところが、いやしくも教壇に立つようになると、その発言は「回答」ではなく、ある種の「正解」になってしまうのである。僕の回答は一つの選択肢ではなく、正しいを示す確かなナビゲーションとして受け止められてしまうようになった。

それは、学生との年齢差も大きな要因であろう。多く学生に接してきたであろう経験を買われ、「先生」という立場が「正解を教える人」とのイメージを後押ししてしまう。僕自身は議論を好み、正解のない「宙ぶらりん状態」を楽しむ性向があるのだが、学生のほうはそうではない。正解を求めて「先生」のもとに来るのである。

こうしたギャップに触れるにつけ、僕は自らの認識を変え、影響力の大きさというものに自覚的にならざるを得なかったわけだが、その過程で身につけた思考法は、「先生」でなくても役立つと確信している。その思考法とは、表題にある「楽観的に目標を見て、悲観的に手段を考える」ということである。

目標や理想を掲げる際には、楽観的に且つ大胆に定めれば良いと思う。それは、人間の可能性への探求であり、冒険である。こうした意欲的な挑戦は、老いを覚えようとも果敢に高く掲げたほうがよい。そうでなければ、人生は色褪せたものになってしまうであろう。あれこれ妄想していくことは、精神衛生上、いいことでもあると思う。

一方で、その理想に至る手段については、最悪の事態を想定して悲観的になるとよいと思う。最悪の想定は、言葉を換えればセーフティネットを確保することであり、命綱をつけて谷を渡るに等しい。谷底へと落下することを想定するから命綱をつけるのであって、僕は命綱を必要とするから止めなさいとは言わない。命綱をつけてから挑戦しなさいと言う。

しかし、実際には僕は悲観主義者だと評されることが多い。というのも、一見すると無謀にも思える高い理想を掲げるのは相談相手であり、そこに命綱の必要性を説くことが僕の役割になるからだ。あたかも野望に燃える青年を僕が引き留めるような形になってしまうことが多々ある。表面に出てくる僕の言葉は、多く悲観的なのだ。大きな夢を掲げて無謀な挑戦をしていく人を見ることを僕は愉しく思う。にもかかわらず、時にブレーキになってしまう。

このあたり、僕の未熟さであり、決して引き留めているわけではないことをしっかりと伝え、その実現を応援しているからこそ、失敗のないように、実現するように、手段を滞りなく揃えようとしているだけなのだと理解されるように努めようと思う。悲観的なのは現実主義者だからであり、この立ち位置は理想を現実化しようとする最もよい手段だと思うからである。理想主義者はえてして楽観的で、運不運によって、その実現が左右されてしまう。実現は意思によって打ち立てるものなのだと僕は確信している。

言葉を語る職業

「政治家」を英訳するとき、気をつけねばならないことがある。それは、politician と statesman の2つの英単語があるからだ。言葉が複数ある以上、これらには必ず相違がある。ということで、まずは辞書にあたってみよう。
 
[politician]
A politician is a person whose job is in politics, especially a member of parliament or congress. (COBUILD)
 
[statesman]
A statesman is an important and experienced politician, especially one who is widely known and respected. (COBUILD)
 
ということなので、politician とは、「政界でその職を持つ人。特に国会や議会の議員」を指し、statesman とは、「有力で経験豊かな politician。特に広く知られ、尊敬を集めている politician 」を指す。すなわち、statesman とは、politician の中に含まれる狭義の「政治家」であり、かつ、良いイメージを伴うものだということが分かる。しかし、僕の経験の中で付け加えるならば、人々の政治談議の中に登場する時、politician は「政治屋」というような軽蔑的意味合いで使用されることが圧倒的である。「政治屋」とは、「地位や立場を利用し、自らの利害に重きを置いて行動する政治家を軽蔑していう語」(コトバンク)であり、つまりは政局に左右され、自らの当落にのみ関心ある政治家のことだ(先に引用したCOBUILDの2つの言葉に付されている例文でも、マイナスイメージの politician と、プラスイメージの statesman が明らかである)。
 
昨今の野党のありさま、とりわけ東京都議選をめぐる一連の離党騒動などを見ていると、野党にいるのは「政治屋」ばかりではないかと頭を抱えてしまう。現在の政党に属していると再選が危ういので、沈む泥船から急いで降りて、小池都知事に寄り添う姿などは、見ていても気分の良いものではない。目を国政に転じても、安倍政権崩壊のみに汲々とし、とにかく何が何でも自民党を政権から引き摺り下ろそうと難癖をつけているようにしか見えない。手段の目的化である。自らの政権を打ち立てるために倒閣するはずが、倒閣することが目的と化し、その後の政権構想を描けないでいる。有権者もそれは感じている。だからこそ、支持率が伸びないのだろう。

政治家は夢を語る職業であると僕は思う。ビジョンを掲げるのが仕事だ。それを現実化していくのは官僚の仕事である。政治家が進む先を示し、それに官僚が現実的方策を考えていく。だからこそ、官僚は不偏不党の立場にあって、かつ、実務に優れた有能なエリートでなければならない。同じ公務員でも、政治家が選挙で選ばれ、官僚が試験で選ばれるという根拠がここにある。政治家が他の職業よりも「失言」に厳格さを求められ、ついには「失言」によって職を辞さなければならない理由もここにある。政治家は言葉を語る専門家なのだ。

ひるがえって、尊敬を得る政治家のことは statesman というのであるが、この言葉の成り立ちにも注目してもらいたい。state は「述べる」・「(公式に)明言する」という動詞である。いわば「述べる人」が statesman である。言葉で信を得、未来を語ることで尊敬を得るような「政治家」が待望されている。

表世界と裏世界

久方ぶりの更新である。言い訳にしか過ぎないが、年度の終わりと始めは目を回すような忙しさで、ブログ執筆を怠けていた。この間、各方面から何人か書くように促されたが、今日の今日まで延ばし続けてしまった。

さて、今回のテーマであるが、森友学園問題を巡って旬の言葉となった「忖度(そんたく)」である。これはマイナスの言葉としてニュースなどで語られているが、ここに違和感を覚える。「忖度」というのは、コトバンクによれば「他人の心を推し量ること」である。国会の与野党の議論で、国有地売買において官僚の「忖度」があったのか、なかったのか、日々報道された。籠池泰典理事長も記者会見で連発し、この言葉は外国人特派員たちを大いに混乱させた。なんとも外国語に翻訳しづらい言葉であり、ということは日本文化に深く根付いた概念だということである。

そもそも、日本社会において「忖度」することは当たり前の日常である。言い換えれば、「空気を読むこと」であり、「おもいやり」の心を持つということである。オリムピックを巡って「おもてなし」という言葉が注目を浴びたが、これもやはり外国語に翻訳されることに馴染まず、「Omotenashi」となった。「Mottainai(もったいない)」と同様である。

同じ「相手の気持ちを推し量ること」なのに、「忖度」は悪いことに、「空気を読む」ことや「思いやりの心を持つ」ことは良いことになってしまった感がある。はっきりと言葉に直して直截に気持ちを伝えることをよしとせず、相手の気持ちを忖度して円滑にコミュニケーションをしようという日本人の美徳を表す言葉が汚されてしまったように感じる。

もちろん、公正と公平を旨とする役人がこれをしてよいのかという問題は別である。民間では「忖度」「心付け」は当然のように行なわれる人間関係の潤滑油である。役人には禁止されている「お中元」や「お歳暮」などの季節の挨拶も、民間では当たり前であるが、西洋から取り入れた役人システム、すなわち合理的で効率的なシステムにおいては、言語と同様、馴染まないものなのである。ある意味で、伝統的な日本社会とは隔離された世界である。

こういう「異世界」の産物を同じ土俵に出して表沙汰にしてもケリはつかないであろう。なぜなら、推し量る対象の「気持ち」も、推し量ろうとした主体の「気持ち」も、内面的なものであり、証明という西洋合理システムの論理の中では説明のつかないものであるからだ。それを国会の中で時間を費やしても、国会に論理性が欠けていることの証明にしかならないであろう。

日本文化に根ざした伝統社会のものと、近代西洋の合理的価値判断との折衷した世界に生きている我々であるが、こうした質的違いは意識していかなければならないだろう。でなければ、不毛な議論にくたびれ果ててしまうことになる。そして、伝統的社会は陰に追いやられ、西洋近代システムが闊歩しているのが現状である。

ここに、いわゆる「表」と「裏」がある。そして、表世界の論理が西洋合理システムである以上、裏世界は表世界に出たらアウトになる。それでも、裏に追いやられている世界観は、日常生活に深く根付いた文化なのである。このことに自覚的でありたいと思う。

ポスト・ヒューマンについて

つい先日、インターネットを利用して、アメリカ合衆国から商品を購入してしまったが、これは決してトランプ大統領への協力ではない。Buy Americanでアメリカ合衆国の富創出の枝葉に参加してしまったが、この商品を注文したのは就任演説以前である。こう言い訳をしながら、今日の投稿を始めたい。

新春特別企画4回シリーズの最終回は、「ポスト・ヒューマン」についてである。前回までと同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ヒューマン」についての話から始める。

「ヒューマン」とは言うまでもなく、「人間」である。「人間後」とはいかなることであろうか。これを予感させるニュースが昨年は目白押しだったように思う。いわゆる「AI関連ニュース」である。

僕が子供のころ、アンドロイド(人型ロボット)はまさに空想科学であった。映画「スターウォーズ」のC-3POR2-D2は夢の世界の話であった。しかし、ソフトバンクのペッパー君を見ていると、そう遠くない未来のように感じられてくる。複数のAIを組み合わせたロボットによる喫茶店実験(慶應大学の矢上キャンパス)や、自動車の自動運転、スマートフォン搭載の音声認識、法務や医療における提案など、昨年はAIが現実化してくる様を見せつけられた。

2014年夏に英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が、AIに取って代られて消えていく職業をまとめたとき、正直、実感を得なかった。まだまだ先の未来だと感じていたのだ。それが2016年には具体的な姿をもって実物が登場した。技術の開発スピードは日進月歩だから、実用化まではあっという間だろう。2020年のオリンピック・パラリンピックには、スマートフォンに搭載する通訳ソフトが登場する見込みであり、こうなってくると、AIの音声認識はほぼ問題ないレベルになっているであろう。2020年まであと3年である。

さて、こうなってくると、「人間」はどうしたらよいのだろうか。

古代ギリシャのように、奴隷に働かせて日常の用を足し、市民は有閑階級として政治や学術、芸術に勤しんでいたように、AIに日常の用をさせて人間は有閑階級になるというような世界が実現するのであろうか。あるいは、マルクスの夢想を増幅させたような、人々が労働から解放される真の意味での共産主義が実現してくるのであろうか。それとも、映画「マトリックス」のように人工知能に支配された人間が登場してくるのであろうか。

どのような未来が訪れるにせよ、ここで「人間とは何か」という命題を突き付けられるであろう。生活の糧を得るという意味でのいわゆる生産活動から解放され、「働かざるもの食うべからず」を根底から覆すような世界が立ち現れた時、われわれ人間の「生きる」とはなにかという問いが表れてくる。昨年より哲学書が書店の店頭を賑わせているが、そうした気配を感じているのだろう。哲学書が一般書のように書店に溢れていること自体が本来は異常なのだ。

人類史上初の問い、これまでの前提を根底から覆した先にある問いを考えていきたい。当ブログの問題意識である。

第1回から今回まで、ポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、ポスト・ヒューマンという当ブログの問題意識を4つのテーマから迫ってきた。これらはすべてブログの副題に付けられているものであるが、これらはすべて「視座」である。これらの視座をもって、学際的、すなわち学問領域を超えて輻輳的に考察をして、視座から見えてくる地平を広げていきたい。それが「学際知の地平」である。

ポスト・グーテンベルクについて

新春特別企画4回シリーズの第3回目は、「ポスト・グーテンベルク」についてである。前回までと同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「グーテンベルク」についての話から始めたい。

グーテンベルクは、ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクという長い名前のドイツ人である。彼が活躍したのは、ルネッサンス期である。ルネッサンスの三大発明と言われる「火薬・羅針盤活版印刷」のうちの活版印刷を開発した人物である。彼以前には本は手書き写しか木版使用であったが、活版印刷の発明により、大量生産を可能とし、生産者にとっても読者にとっても、経済的に成り立つものとなったのである。

新春特別企画4回シリーズの初回と第2回では、「近代国家」の誕生・発展を前提としていた。我々の住むこの世界は、「近代」の発明によるものである。モダン(近代)とナショナル(国家)の話は、思想と制度である。そうした「近代国家」が生まれるためには、「国民」の存在が不可欠であるが、ここでいう「国民」は理性と知性を兼ね備えていなければならない。そうでなければ「国家」の支配者として主権者たり得ないからである。この「教育」を可能にしたものこそ、身近に本があるということである。活版印刷は機内国家に生きる啓蒙された国民を生み出したのである。

ところが、少し前から「活字離れ」が話題に上るようになった。新聞の購読数は、日本新聞協会(社)によれば、1997年の4726万部から2016年の3982万部へと、およそ10年間で744万部も減少している。他にも、総務省のデータに拠れば、書籍、月刊誌、週刊誌、コミックなども1990年代後半から軒並み発行数が減少している。一見すると、数字の上でも裏付けられているようにも見えるが、活版印刷に拠るような「紙の本」が減少したに過ぎない。

このブログの読者もそうであるが、ネット上の「活字」に親しむようになってきたのである。ネット上の「活字」はなかなか勘定できないが、電子書籍の場合には少しデータに当たれる。2010年に電子書籍の売り上げが650億円だったものが、2015年には1584億円にまで増えている。2020年には3000億円に成長するとの試算もある。一方、紙の書籍の売り上げは2015年度で1兆5220億円あるが、1996年のピーク時に2兆6563億円だったことから考えれば、ずいぶんな落ち込みようである。

つまり、「ポスト・グーテンベルク」とはインターネットや電子書籍のことである。「ポスト~」の後ろの部分が比較的明確である。活版印刷に代わる新しい技術が登場しているが、それらをひとまとめにして表現することはまだ難しい。グーテンベルクの技術が世の中を変えたように、インターネットという技術は世の中を変えつつある。それがどのようにどこまで何を変えるのかは未だ発展途上であり、不明確な部分も多い。

活版印刷は本や新聞、雑誌など、大衆を一つの方向に向かせることを呼び起こした。インターネットの存在は、個々の人々に多種多様な方向を向かせるのに貢献している。こうした変化が今後、どのようになっていくのか。こうした問いを胸に起きつつ、社会を見ていきたいと願っている。これが当ブログの第三の柱である。