学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ポスト・ヒューマンについて

つい先日、インターネットを利用して、アメリカ合衆国から商品を購入してしまったが、これは決してトランプ大統領への協力ではない。Buy Americanでアメリカ合衆国の富創出の枝葉に参加してしまったが、この商品を注文したのは就任演説以前である。こう言い訳をしながら、今日の投稿を始めたい。

新春特別企画4回シリーズの最終回は、「ポスト・ヒューマン」についてである。前回までと同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ヒューマン」についての話から始める。

「ヒューマン」とは言うまでもなく、「人間」である。「人間後」とはいかなることであろうか。これを予感させるニュースが昨年は目白押しだったように思う。いわゆる「AI関連ニュース」である。

僕が子供のころ、アンドロイド(人型ロボット)はまさに空想科学であった。映画「スターウォーズ」のC-3POR2-D2は夢の世界の話であった。しかし、ソフトバンクのペッパー君を見ていると、そう遠くない未来のように感じられてくる。複数のAIを組み合わせたロボットによる喫茶店実験(慶應大学の矢上キャンパス)や、自動車の自動運転、スマートフォン搭載の音声認識、法務や医療における提案など、昨年はAIが現実化してくる様を見せつけられた。

2014年夏に英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が、AIに取って代られて消えていく職業をまとめたとき、正直、実感を得なかった。まだまだ先の未来だと感じていたのだ。それが2016年には具体的な姿をもって実物が登場した。技術の開発スピードは日進月歩だから、実用化まではあっという間だろう。2020年のオリンピック・パラリンピックには、スマートフォンに搭載する通訳ソフトが登場する見込みであり、こうなってくると、AIの音声認識はほぼ問題ないレベルになっているであろう。2020年まであと3年である。

さて、こうなってくると、「人間」はどうしたらよいのだろうか。

古代ギリシャのように、奴隷に働かせて日常の用を足し、市民は有閑階級として政治や学術、芸術に勤しんでいたように、AIに日常の用をさせて人間は有閑階級になるというような世界が実現するのであろうか。あるいは、マルクスの夢想を増幅させたような、人々が労働から解放される真の意味での共産主義が実現してくるのであろうか。それとも、映画「マトリックス」のように人工知能に支配された人間が登場してくるのであろうか。

どのような未来が訪れるにせよ、ここで「人間とは何か」という命題を突き付けられるであろう。生活の糧を得るという意味でのいわゆる生産活動から解放され、「働かざるもの食うべからず」を根底から覆すような世界が立ち現れた時、われわれ人間の「生きる」とはなにかという問いが表れてくる。昨年より哲学書が書店の店頭を賑わせているが、そうした気配を感じているのだろう。哲学書が一般書のように書店に溢れていること自体が本来は異常なのだ。

人類史上初の問い、これまでの前提を根底から覆した先にある問いを考えていきたい。当ブログの問題意識である。

第1回から今回まで、ポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、ポスト・ヒューマンという当ブログの問題意識を4つのテーマから迫ってきた。これらはすべてブログの副題に付けられているものであるが、これらはすべて「視座」である。これらの視座をもって、学際的、すなわち学問領域を超えて輻輳的に考察をして、視座から見えてくる地平を広げていきたい。それが「学際知の地平」である。

ポスト・グーテンベルクについて

新春特別企画4回シリーズの第3回目は、「ポスト・グーテンベルク」についてである。前回までと同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「グーテンベルク」についての話から始めたい。

グーテンベルクは、ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクという長い名前のドイツ人である。彼が活躍したのは、ルネッサンス期である。ルネッサンスの三大発明と言われる「火薬・羅針盤活版印刷」のうちの活版印刷を開発した人物である。彼以前には本は手書き写しか木版使用であったが、活版印刷の発明により、大量生産を可能とし、生産者にとっても読者にとっても、経済的に成り立つものとなったのである。

新春特別企画4回シリーズの初回と第2回では、「近代国家」の誕生・発展を前提としていた。我々の住むこの世界は、「近代」の発明によるものである。モダン(近代)とナショナル(国家)の話は、思想と制度である。そうした「近代国家」が生まれるためには、「国民」の存在が不可欠であるが、ここでいう「国民」は理性と知性を兼ね備えていなければならない。そうでなければ「国家」の支配者として主権者たり得ないからである。この「教育」を可能にしたものこそ、身近に本があるということである。活版印刷は機内国家に生きる啓蒙された国民を生み出したのである。

ところが、少し前から「活字離れ」が話題に上るようになった。新聞の購読数は、日本新聞協会(社)によれば、1997年の4726万部から2016年の3982万部へと、およそ10年間で744万部も減少している。他にも、総務省のデータに拠れば、書籍、月刊誌、週刊誌、コミックなども1990年代後半から軒並み発行数が減少している。一見すると、数字の上でも裏付けられているようにも見えるが、活版印刷に拠るような「紙の本」が減少したに過ぎない。

このブログの読者もそうであるが、ネット上の「活字」に親しむようになってきたのである。ネット上の「活字」はなかなか勘定できないが、電子書籍の場合には少しデータに当たれる。2010年に電子書籍の売り上げが650億円だったものが、2015年には1584億円にまで増えている。2020年には3000億円に成長するとの試算もある。一方、紙の書籍の売り上げは2015年度で1兆5220億円あるが、1996年のピーク時に2兆6563億円だったことから考えれば、ずいぶんな落ち込みようである。

つまり、「ポスト・グーテンベルク」とはインターネットや電子書籍のことである。「ポスト~」の後ろの部分が比較的明確である。活版印刷に代わる新しい技術が登場しているが、それらをひとまとめにして表現することはまだ難しい。グーテンベルクの技術が世の中を変えたように、インターネットという技術は世の中を変えつつある。それがどのようにどこまで何を変えるのかは未だ発展途上であり、不明確な部分も多い。

活版印刷は本や新聞、雑誌など、大衆を一つの方向に向かせることを呼び起こした。インターネットの存在は、個々の人々に多種多様な方向を向かせるのに貢献している。こうした変化が今後、どのようになっていくのか。こうした問いを胸に起きつつ、社会を見ていきたいと願っている。これが当ブログの第三の柱である。

ポスト・ナショナルについて

新春特別企画4回シリーズの第2回目は、「ポスト・ナショナル」についてである。第1回目と同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ナショナル」についての話から始めよう。「ナショナル」とは「国家の」とか「国民の」という意味の形容詞であるが、まずはこの名詞形である「ネイション」から話を進めていくことにしよう。

「ネイション」は多義的で、主なものに主体としての「国家」、集合体としての「国民」、統合体としての「民族」の意味がある。

21世紀は「国家」としての「ネイション」が瓦解あるいは融解の方向へと向かったと言われている。それはEUやEPAに代表されるような「国境」の希薄化に看て取れる。また、グローバリズムの進展・深化からヒトの移動が自由化され、「国民」の集合体は崩れつつあった。当然、「民族」としての純潔性も失われ、混血が多く生まれた時代でもあった。

このような状況を受けて、近代から営々と築き上げられてきた「ネイション」の姿が薄くなるにつれて次の時代が期待されるも、それに変わる明白な「新しい姿」が見えてこなかった。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と表現したように、「ネイション」を築く積極的な努力が消え去り、そのまま今がなんとなくずるずると続いていくかのように思われた。この消極的な状況を「ネイションの後」=「ポスト・ネイション(ナショナル)」と指すようになった。

ところが、現在の我々はそうではないことに気がつきつつある。EUは英国の離脱を受けて存続が危うくなり、欧州は移民問題に揺れ、アメリカ大統領選やフィリピンなどを始めとして「ナショナル」な傾向が強まり、日本でも移民問題に敏感になり、戦後に封印されてきた「日本という国柄」を表立って主張できる空気が醸成されている。つまり、再び「ネイション」が台頭してきつつあるのだ。

とはいえ、まったく同じではない。グローバリズムの深化は経済も人種も混ぜてしまった。「国際派」ないし「国際人」、「国際的」と言われている間は、「国」の色は強かった。「際」は「接するところ」という意味であり、「際」の両側ははっきりと区別できた。「水際」と言えば、陸地と水面には明確な区別がある。同じように「国際」の場合には接する国同士が「全くの別物」とする了解があったのである。それが「グローバル(地球)」となれば、その内部での境界線は非常に曖昧である。そうした混交を経てきた現在、国民や民族において「純正」は存在し得ない。

唯一、純正ができるとすれば、それは「国家」という人工物であろう。「国家」は制度でありシステムである。だから、今後、「国家」をめぐる議論が活発化してくるだろうと思っている。それは、国境紛争という形でも現れてくるであろうし、そもそも「国家」とはなにかという議論を呼ぶであろう。そして、これに伴って「国家」の構成要素たる「国民」の再定義が可能となる。そうすると、「国家」と「国民」の関係にも変化が見られてくるであろう。

今上陛下のご退位の後に元号が必要なのか否かという議論も、日本がかつてと違ってグローバル化の洗礼を受けて純正を失っているからであり、年金問題移民問題、働き方改革にしても、「国家」と「国民」との関係性に言及してくるはずである。こうして新しく成立してくる「国家」を「ネイション」と呼ぶのかどうかで、「ポスト・ナショナル」の世界が見えてくると思う。本ブログはこうした前提に立っている。

ポスト・モダンについて

新春特別企画4回シリーズとして、当ブログの時代の捉え方について、第1回目は「ポスト・モダン」について扱う。実はこの「ポスト・モダン」は言葉としてよく耳にするものの、各論者の文脈によってさまざまに定義され、これと明確な姿を描けない。実に曖昧な概念をブログの設定に含んでいるのであるが、この理由を以下に追っていこう。

「ポスト」というのは、「~の後」という意味の接頭語である。つまり、「ポスト・モダン」というのは「モダンの後」という意味なので、まずは「モダン(近代)」とは何かという問題から出発しよう。ざっくりと言ってしまえば、リオタールの言を借りれば「大きな物語」が存在した時代がモダン(近代)である。たとえば、冷戦を代表とするような、あるイデオロギーによって成り立つ世界観のことである。

もう少し具体的に言えば、自立的な理性的主体という理念を持ち、道具的理性による世界の抽象的な客体化を通して、整合的で網羅的な体系性を構築した世界観である。体系的な全体像を得るためには、「中心・周縁」や「資本家・労働者」といった一面的な階層化を行なったり、等質的で還元主義的な要素を発見したりした。近代思想とは、こうした合理的で階層的な思考の態度を基底に持つ思想である。これはすっきりとしていて、物事を理解するのに非常に便利である。

ある意味で、高度に画一化された世界である。日本でも、最初はアパートに住み、カローラ(大衆車)を持つようになり、出世すると共にマンション・一戸建てを所有し、やがてはクラウン(高級車)を持つというような一連の「定型」が示されていた。「末は博士か大臣か」との言葉は、子供の将来を願って出世の最高峰という意味で、才能の一端を示した子供への賛辞であった。博士か大臣になれば、人生は安泰という「道」が存在していた。また、大量生産・大量消費という資本主義のシステムは、合理的な理性を持つ人々の間の整合的な網羅的な体系を持つ世界観の構築を大いに助けた。

このような皆を包摂する「大きな物語」が崩壊した時代が「ポスト・モダン」である。ポス・ドクといわれる博士出身者が路頭に迷い、大臣ないし大臣経験者が素人のようにも扱われる今にあっては、もはや「定型たる道」は存在しない。こうした崩壊を受けても、ポスト・モダンそのものは、モダンへの批判という形であるため、「~ではない」という主張であって、「~である」という肯定的な思想たり得ない。「~ではない」のならば何なのかという問いには答えていないのが「ポスト・モダン」の最大の特徴である。だから、モダン(近代)の一つ一つの側面について批判的に否定していく堆積物としての思想にならざるを得ず、体系性を失い、多様性が跋扈するようになったのである。構造主義的思想が物事を構造的に分解し、その端緒を批判していったが、これは「大きな物語」の解体作業であったと言えよう。

現象としては、出世してお金持ちになってもアパートに住み続ける一方で、車は高級外国車を乗り回したり、そもそも車を所有しなくなったりという「大きな物語」からの逸脱が見られるようになったのである。いわゆる「若者の~離れ」という現象は、モダン(近代)を生きた大人たちによる「定型」の通用しない価値観を持つ若者への戸惑いである。大人になれば「新聞を購読し」、「酒を飲み」、休日は「ゴルフをし」、正月には「里帰りをし」、盆には「墓参りをする」というような定型が崩れてきているのである。そういうことをせずに過ごしても自由じゃないかという発想であり、それを尊重しようという多様性の許容である。

こうした画一性や統一性といった体系の存在しない世界、つまりは多様性の存在する混沌とした世界が当ブログの設定する時代背景である。いろいろな事象が階層性を否定して対等に並立し、複雑系の世界の住民たる我々にとって、近代理性では把握しきれない混沌とした世界にあっては、理性よりも感情的になるほうが自然である。理性が世の中を集約できないならば、信頼に足るものは自らの内より湧き出でる感情のほうが確かなものであり、信じられるからである。

ポピュリズムを始めとした現象が2016年に取り沙汰されたが、これも大局的には「ポスト・モダン」現象なのである。とはいえ、「モダン」は潰えたものではない。現在は「モダン」と「ポスト・モダン」の混交であり、「モダン」は滅び去ってはいない。前述したように、「ポスト・モダン」はこれという主張を持たない世界であり、「モダン」に取って代わる新しい何かを構築したものではないし、「ポスト・モダン」においては「モダン」もまた許容されるべき多様性の中の一つとして、残っているからである。

取って代わるべき新しい何かがないからこそ、思考を進めるためには理性を活用し、世界を理路整然と体系化していこうとする試みが必要であり、その中から「新しい何か」が発見されるであろうと思う。「ポスト・モダン」の否定的な批判を参考にして、肯定的に構築していこうとするもがき、あがきこそが役立つであろうとの視点から、当ブログを執筆している。もっとも、これ自体がそもそも「モダン」という古い世界観から逸脱できていない証左ではあるが、過去をよく知らぬものに未来は描けない。原稿をよく読まなければ加筆修正もままならないのである。

あけましておめでとうございます

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

当ブログは世の中のいろいろな出来事をポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、そしてポスト・ヒューマンな視点から時代を考えるというものをコンセプトにがんばっております。2016年はAIの話題があちらこちらから聞こえ始め、ポスト・ヒューマンも眼前に現れてきたなぁと感じております。

ところで、NHK紅白歌合戦を見ていて、司会でも歌手でも「まともにやってくれ!」と思いながら、YouTube視聴に変えました。昔のものや、歌手らしい歌手、つまりは歌を売り物にできるだけの歌手の映像を楽しみました。最近のテレビ番組からは、エンターテイメント性といいますか、プロの意地というものが消え去り、「NHKのど自慢」のような素人参加番組に成り下がったような気がします。

かつて、ビートたけしさんが「お笑い芸人は人を笑わせる人であって、人から笑われる人のことではない」というような主旨の発言をされていましたが、ここで指摘されているように、「人を笑わせる」というエンターテイメント性が希薄なんですよね。視聴者を置き去り、出演者が楽しんでいるだけなんです。視聴率を取るためだと思いますが、「正解を見てみましょう!」と言ってCMに突入したりすることは、きわめて姑息なやり方で、視聴者のことを見ていないやり方でしょうね。

これを我が身に当てはめれば、自分が言いたいことを相手の主張を押しのけて通そうとしていないか、聞いた相手はそれをどのように感じるであろうかと配慮する姿勢に繋がると思います。もちろん、これは「プロ」ではない日常の一コマなのですが、しかし、こうした配慮はコミュニケーションを成立させる上で必須でしょう。なにを伝えようとしているかよりも、その言い方、表情、伝え方でなにが伝わっているかを一考しなければならないと思います。

今年の投稿は、このブログのテーマについて、つまり、ポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、そしてポスト・ヒューマンについて、それぞれ最新の状況を押さえながら記事を一つずつ掲載していこうと計画しています。12月の記事投稿はサボってしまったので、その反省を込めて、新年はテーマを決めて取り組んでいこうと思います。

読者の皆様、今年もどうぞよろしくお願いします。

 

追伸

記事が良いと思えば、リアル友達にアドレスを紹介するなど、読者の輪を広げていただきたく、よろしくお願いします。

日本という国のかたち

日本という国は、「二重構造」の国だと思うんです。美濃部達吉の「天皇機関説」というのがあって、日本では昔から天皇が権威を持ち、実権に正当性を与えてきたというような説明を受けるんですが、天皇にも実権はあったと思います。でなければ、中国のように易姓革命が起きて、天皇家を放逐して新たな権威になった人が1200年以上いなかったという事実への説明が付かないように思います。

現在の天皇は政治的権力を持たず、署名捺印をするだけの「ゴム印」と喩えられることもありますが、逆に言えば天皇の署名捺印がなければ法律として成立しないわけで、政治権力は厳然とあるわけです。もちろん、天皇に拒否権はないというかもしれませんが、極端な話、仮病でもなんでも現実逃避はなんとでもなるし、逆に天皇が「イヤだ」と明確に口にされても、天皇を罷免して新天皇を即位させるなどということはできないわけです。今上陛下を信じて、人柄頼みな要素は今もあるわけです。

昭和天皇が好きなテレビ番組を尋ねられて、「昨今はテレビ局同士の競争も激しく、具体的な番組名を言うことは差し控えたい」と回答されたエピソードを待つまでもなく、「皇室御用達」(制度としては現存していない)のお店で買おうとかいう例を見ても、やはりその影響力は厳然とあるわけです。それを濫用しないという天皇家への信頼で成り立っているのが現状と言えるでしょう。

考えてみれば、奈良の律令体制を過ぎてから、日本はそうした「ゴム印天皇家」を戴いてきたわけです。藤原摂関政治院政、武士政権でも同じで、すべて天皇に奏上し、認可を得てきたわけです。つまり、「聞いて頷く」という権力行使をしてきたので、お飾りではなかったわけですね。お飾りならさっさと挿げ替えてしまえばよいわけですから。藤原摂関家上皇に統治を「外注」してきたわけです。それは、天皇家に軍隊がないという事実からも分かります。

天皇家には検非違使や衛兵はいましたが、それらは軍隊ではなく都を守る警察力です。世界中の歴史を見ても、為政者の居宅が簡単に乗り越えられる1メートルちょっとの壁だけで仕切られているのは類を見ないことでしょう。天皇の居宅である御所には、堅牢な防御壁も堀もなく、平地に建っています。貴族と兵士の区別がない時代はともかく(坂上田村麻呂征夷大将軍でしたが、彼を武士と見ることはありません)、平安時代の後期に武士が誕生すると、統治は武家へ丸投げします。

それから鎌倉、室町、江戸と武家の時代が続きますが、天皇家は「何が起きているのかを知る・聞かされる」という形で、絶えることなく続いています。しかし、奇妙なことに、統治行為が朝廷(宮廷)から外へ出ると、今度はここでも「二重構造」が現れます。鎌倉幕府における執権、室町幕府における管領江戸幕府における大老ないし老中であり、やがて将軍家は「報告を受けるだけ」の存在になっていきます。それでも、将軍が「聞いた・知った」というゴム印は、合議制の意思統一、つまり、過程ではさまざまな意見があったけれども、これに決まりましたと衆を一つにする働きがあったわけです。

ある意味で、西洋近代でいうところの「一般意思」、あるいは中国でいうところの「天命」を表象する存在だったわけです。形にならない、目に見えないものを偶像化する手段として、天皇が必要だったとすれば、人類の社会に共通して必要なものだったということができます。政府が「一般意思」ないしは「天命」に逆らったとなれば革命が起き、政府の交代が起きますが、コミュニティから外在する神懸かった自然法的な「一般意思」ないし人間界にはない「天命」は、担当する人間を変えることを可能としましたが、天皇はコミュニティに内在するため、万世一系となり得たのではないでしょうか。

江戸以降を考えても、明治時代から第二次世界大戦までの天皇親政にも「元老」という外注先があったし、最後の元老たる西園寺公望の死後は軍部がそれを担いました。余談ですが、現代の会社にも承認をするだけの社長と遣り手の専務というような構図はよくある形です。日本社会の至るところにこうした「二重構造」は看て取れます。いわゆる「お墨付き」をもって正当性を確保する「手続き」は社会に根付いています。

こうして統治行為を軍事力を持つ外注先へと丸投げしてきたわけですが、戦後はこれをアメリカ合衆国に丸投げしたんですよね。だから、日本は対米従属せざるをえないし、アメリカの意向を受けた法律や制度が作られてきたわけです。江戸時代に朝廷が幕府の言いなりだったのと同じと考えればいいわけです。戦後の日本はまるごと軍事力をアメリカに外注してきたわけです。沖縄の米軍基地を「少なくとも県外」と主張して選挙で選ばれた日本国総理大臣が、アメリカ大統領や国務長官ではなく、ペンタゴンの反対を受けて、あっさりと引き下がったとき、アメリカに対する批判よりも日本の総理大臣に対する批判のほうが強かったことから考えても、日本ではアメリカの内政介入は自然なことだったわけです。

だから、対米従属をやめたいのであれば、あるいはアメリカの顔色を窺いたくなければ、あるいは「アメリカがクシャミをすれば日本は風邪を引く」と陰口を叩かれたくなければ、日本はアメリカへの軍事力の外注をやめ、自前で軍事力を持っていかなければならなくなるわけです。21世紀の討幕運動ですね。明治の頃、徳川家が公爵として残り、貴族院に隠然たる勢力を確保したことからも、アメリカへの外注をやめたところで、アメリカとの関係が破綻することなくやっていける道を見いだせると思います。

というよりも、アメリカにとっては合理的に日本占領計画を自国の利に叶うようにやってきただけであって、日本の事情なんか知ったことではないでしょう。トランプ大統領の誕生を受けて、新しいナショナリズムアングロ・サクソン国家で台頭してきた今(英国のEU離脱も新しいナショナリズムの形でしょう)、日本は自前の軍事力を持たなければならないでしょう。でなければ、戦国時代の様相を呈するか、日本史上で類を見ない無秩序や混乱が起きるのではないでしょうか。日本全国を覆うような軍事力が欠けることになるのですから。

ちなみに、内閣は天皇に対しての責務を負っていないから必要性も制度としてもないけれども、現在でもなお「内奏」(国務大臣による)や「ご進講」(高級官僚や学者による)という名の「聞いて知ってもらう」という権力行使は続いています。

歴史はイギリスから始まる

アメリカ大統領選挙が予想外な結果に終わり、驚きを持ってその結果を受け止めた。もっとも、僕の知性が愚かだから驚きであったのかもしれない。

今年9月27日のブログ記事「米国の大統領選」の中で、長い大統領選は候補者も国民も双方が国政について学び、考えるよい機会だと述べた。その文脈では、時間をかけて多角的に冷静に考えられるので、最適な答えを見い出すと、アメリカの知性に信頼と期待を寄せているというような文章になっている。つまりは、ヒラリーが当選するだろうと予測していた。

今日発売のThe Economistによると、ヒラリーは伝統的な支配階層に属するがゆえに負けたとある。ちなみに、The Economist紙も同じエリート層に属すると自虐的に書いているところは面白い。そして、その指摘するところは、戦後に築き上げてきた自由貿易と西側自由民主義体制への、歴史の再襲である。

とするならば、この労働者階級と支配者(富裕者)階級の政治意識の乖離は、今年6月の英国のEU離脱から始まっていることになる。マスコミもトランプ氏の攻撃対象となり(ヒラリー支持57社に対してトランプ支持2社)、既得権益者としてのマスコミの国民との乖離(信用されていない度合い)という視点から見れば、我が国の都知事選挙でも同様であった。

フランス人のエマニュエル・トッド氏の歴史観に拠れば、いわゆるアングロ・サクソン秩序が挑戦を受けているとなろう。自由と民主主義を国是として掲げるアメリカにおいて、社会主義を公然と標榜するサンダーズ候補が登場したことからも、既存の体制が試練を受けていることを読み取れる。代表制民主主義の仕組みを生み出し、産業革命を最初に開始した英国は、各時代を切り拓いてきたが、その終焉においても真っ先に幕を切ったということになるのだろうか。

それにしても、アングロ・サクソン・システムが、英米というアングロ・サクソンの国々から崩壊を始めたことは興味深い現象である。とはいえ、200年以上にわたって世界のスタンダードとして通用してきたモノサシが使い物にならなくなる。今の我々は価値観の定まらない非常に不安定な地表に立っている。さまざまな激動がある中で、価値観の激動ほど困難なものはあるまい。今回のアメリカ大統領選挙は、従来の価値観に囚われることなく、社会現象を見つめていきたいと反省する機会となった。