学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ポスト・ナショナルについて

新春特別企画4回シリーズの第2回目は、「ポスト・ナショナル」についてである。第1回目と同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ナショナル」についての話から始めよう。「ナショナル」とは「国家の」とか「国民の」という意味の形容詞であるが、まずはこの名詞形である「ネイション」から話を進めていくことにしよう。

「ネイション」は多義的で、主なものに主体としての「国家」、集合体としての「国民」、統合体としての「民族」の意味がある。

21世紀は「国家」としての「ネイション」が瓦解あるいは融解の方向へと向かったと言われている。それはEUやEPAに代表されるような「国境」の希薄化に看て取れる。また、グローバリズムの進展・深化からヒトの移動が自由化され、「国民」の集合体は崩れつつあった。当然、「民族」としての純潔性も失われ、混血が多く生まれた時代でもあった。

このような状況を受けて、近代から営々と築き上げられてきた「ネイション」の姿が薄くなるにつれて次の時代が期待されるも、それに変わる明白な「新しい姿」が見えてこなかった。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と表現したように、「ネイション」を築く積極的な努力が消え去り、そのまま今がなんとなくずるずると続いていくかのように思われた。この消極的な状況を「ネイションの後」=「ポスト・ネイション(ナショナル)」と指すようになった。

ところが、現在の我々はそうではないことに気がつきつつある。EUは英国の離脱を受けて存続が危うくなり、欧州は移民問題に揺れ、アメリカ大統領選やフィリピンなどを始めとして「ナショナル」な傾向が強まり、日本でも移民問題に敏感になり、戦後に封印されてきた「日本という国柄」を表立って主張できる空気が醸成されている。つまり、再び「ネイション」が台頭してきつつあるのだ。

とはいえ、まったく同じではない。グローバリズムの深化は経済も人種も混ぜてしまった。「国際派」ないし「国際人」、「国際的」と言われている間は、「国」の色は強かった。「際」は「接するところ」という意味であり、「際」の両側ははっきりと区別できた。「水際」と言えば、陸地と水面には明確な区別がある。同じように「国際」の場合には接する国同士が「全くの別物」とする了解があったのである。それが「グローバル(地球)」となれば、その内部での境界線は非常に曖昧である。そうした混交を経てきた現在、国民や民族において「純正」は存在し得ない。

唯一、純正ができるとすれば、それは「国家」という人工物であろう。「国家」は制度でありシステムである。だから、今後、「国家」をめぐる議論が活発化してくるだろうと思っている。それは、国境紛争という形でも現れてくるであろうし、そもそも「国家」とはなにかという議論を呼ぶであろう。そして、これに伴って「国家」の構成要素たる「国民」の再定義が可能となる。そうすると、「国家」と「国民」の関係にも変化が見られてくるであろう。

今上陛下のご退位の後に元号が必要なのか否かという議論も、日本がかつてと違ってグローバル化の洗礼を受けて純正を失っているからであり、年金問題移民問題、働き方改革にしても、「国家」と「国民」との関係性に言及してくるはずである。こうして新しく成立してくる「国家」を「ネイション」と呼ぶのかどうかで、「ポスト・ナショナル」の世界が見えてくると思う。本ブログはこうした前提に立っている。

ポスト・モダンについて

新春特別企画4回シリーズとして、当ブログの時代の捉え方について、第1回目は「ポスト・モダン」について扱う。実はこの「ポスト・モダン」は言葉としてよく耳にするものの、各論者の文脈によってさまざまに定義され、これと明確な姿を描けない。実に曖昧な概念をブログの設定に含んでいるのであるが、この理由を以下に追っていこう。

「ポスト」というのは、「~の後」という意味の接頭語である。つまり、「ポスト・モダン」というのは「モダンの後」という意味なので、まずは「モダン(近代)」とは何かという問題から出発しよう。ざっくりと言ってしまえば、リオタールの言を借りれば「大きな物語」が存在した時代がモダン(近代)である。たとえば、冷戦を代表とするような、あるイデオロギーによって成り立つ世界観のことである。

もう少し具体的に言えば、自立的な理性的主体という理念を持ち、道具的理性による世界の抽象的な客体化を通して、整合的で網羅的な体系性を構築した世界観である。体系的な全体像を得るためには、「中心・周縁」や「資本家・労働者」といった一面的な階層化を行なったり、等質的で還元主義的な要素を発見したりした。近代思想とは、こうした合理的で階層的な思考の態度を基底に持つ思想である。これはすっきりとしていて、物事を理解するのに非常に便利である。

ある意味で、高度に画一化された世界である。日本でも、最初はアパートに住み、カローラ(大衆車)を持つようになり、出世すると共にマンション・一戸建てを所有し、やがてはクラウン(高級車)を持つというような一連の「定型」が示されていた。「末は博士か大臣か」との言葉は、子供の将来を願って出世の最高峰という意味で、才能の一端を示した子供への賛辞であった。博士か大臣になれば、人生は安泰という「道」が存在していた。また、大量生産・大量消費という資本主義のシステムは、合理的な理性を持つ人々の間の整合的な網羅的な体系を持つ世界観の構築を大いに助けた。

このような皆を包摂する「大きな物語」が崩壊した時代が「ポスト・モダン」である。ポス・ドクといわれる博士出身者が路頭に迷い、大臣ないし大臣経験者が素人のようにも扱われる今にあっては、もはや「定型たる道」は存在しない。こうした崩壊を受けても、ポスト・モダンそのものは、モダンへの批判という形であるため、「~ではない」という主張であって、「~である」という肯定的な思想たり得ない。「~ではない」のならば何なのかという問いには答えていないのが「ポスト・モダン」の最大の特徴である。だから、モダン(近代)の一つ一つの側面について批判的に否定していく堆積物としての思想にならざるを得ず、体系性を失い、多様性が跋扈するようになったのである。構造主義的思想が物事を構造的に分解し、その端緒を批判していったが、これは「大きな物語」の解体作業であったと言えよう。

現象としては、出世してお金持ちになってもアパートに住み続ける一方で、車は高級外国車を乗り回したり、そもそも車を所有しなくなったりという「大きな物語」からの逸脱が見られるようになったのである。いわゆる「若者の~離れ」という現象は、モダン(近代)を生きた大人たちによる「定型」の通用しない価値観を持つ若者への戸惑いである。大人になれば「新聞を購読し」、「酒を飲み」、休日は「ゴルフをし」、正月には「里帰りをし」、盆には「墓参りをする」というような定型が崩れてきているのである。そういうことをせずに過ごしても自由じゃないかという発想であり、それを尊重しようという多様性の許容である。

こうした画一性や統一性といった体系の存在しない世界、つまりは多様性の存在する混沌とした世界が当ブログの設定する時代背景である。いろいろな事象が階層性を否定して対等に並立し、複雑系の世界の住民たる我々にとって、近代理性では把握しきれない混沌とした世界にあっては、理性よりも感情的になるほうが自然である。理性が世の中を集約できないならば、信頼に足るものは自らの内より湧き出でる感情のほうが確かなものであり、信じられるからである。

ポピュリズムを始めとした現象が2016年に取り沙汰されたが、これも大局的には「ポスト・モダン」現象なのである。とはいえ、「モダン」は潰えたものではない。現在は「モダン」と「ポスト・モダン」の混交であり、「モダン」は滅び去ってはいない。前述したように、「ポスト・モダン」はこれという主張を持たない世界であり、「モダン」に取って代わる新しい何かを構築したものではないし、「ポスト・モダン」においては「モダン」もまた許容されるべき多様性の中の一つとして、残っているからである。

取って代わるべき新しい何かがないからこそ、思考を進めるためには理性を活用し、世界を理路整然と体系化していこうとする試みが必要であり、その中から「新しい何か」が発見されるであろうと思う。「ポスト・モダン」の否定的な批判を参考にして、肯定的に構築していこうとするもがき、あがきこそが役立つであろうとの視点から、当ブログを執筆している。もっとも、これ自体がそもそも「モダン」という古い世界観から逸脱できていない証左ではあるが、過去をよく知らぬものに未来は描けない。原稿をよく読まなければ加筆修正もままならないのである。

あけましておめでとうございます

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

当ブログは世の中のいろいろな出来事をポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、そしてポスト・ヒューマンな視点から時代を考えるというものをコンセプトにがんばっております。2016年はAIの話題があちらこちらから聞こえ始め、ポスト・ヒューマンも眼前に現れてきたなぁと感じております。

ところで、NHK紅白歌合戦を見ていて、司会でも歌手でも「まともにやってくれ!」と思いながら、YouTube視聴に変えました。昔のものや、歌手らしい歌手、つまりは歌を売り物にできるだけの歌手の映像を楽しみました。最近のテレビ番組からは、エンターテイメント性といいますか、プロの意地というものが消え去り、「NHKのど自慢」のような素人参加番組に成り下がったような気がします。

かつて、ビートたけしさんが「お笑い芸人は人を笑わせる人であって、人から笑われる人のことではない」というような主旨の発言をされていましたが、ここで指摘されているように、「人を笑わせる」というエンターテイメント性が希薄なんですよね。視聴者を置き去り、出演者が楽しんでいるだけなんです。視聴率を取るためだと思いますが、「正解を見てみましょう!」と言ってCMに突入したりすることは、きわめて姑息なやり方で、視聴者のことを見ていないやり方でしょうね。

これを我が身に当てはめれば、自分が言いたいことを相手の主張を押しのけて通そうとしていないか、聞いた相手はそれをどのように感じるであろうかと配慮する姿勢に繋がると思います。もちろん、これは「プロ」ではない日常の一コマなのですが、しかし、こうした配慮はコミュニケーションを成立させる上で必須でしょう。なにを伝えようとしているかよりも、その言い方、表情、伝え方でなにが伝わっているかを一考しなければならないと思います。

今年の投稿は、このブログのテーマについて、つまり、ポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、そしてポスト・ヒューマンについて、それぞれ最新の状況を押さえながら記事を一つずつ掲載していこうと計画しています。12月の記事投稿はサボってしまったので、その反省を込めて、新年はテーマを決めて取り組んでいこうと思います。

読者の皆様、今年もどうぞよろしくお願いします。

 

追伸

記事が良いと思えば、リアル友達にアドレスを紹介するなど、読者の輪を広げていただきたく、よろしくお願いします。

日本という国のかたち

日本という国は、「二重構造」の国だと思うんです。美濃部達吉の「天皇機関説」というのがあって、日本では昔から天皇が権威を持ち、実権に正当性を与えてきたというような説明を受けるんですが、天皇にも実権はあったと思います。でなければ、中国のように易姓革命が起きて、天皇家を放逐して新たな権威になった人が1200年以上いなかったという事実への説明が付かないように思います。

現在の天皇は政治的権力を持たず、署名捺印をするだけの「ゴム印」と喩えられることもありますが、逆に言えば天皇の署名捺印がなければ法律として成立しないわけで、政治権力は厳然とあるわけです。もちろん、天皇に拒否権はないというかもしれませんが、極端な話、仮病でもなんでも現実逃避はなんとでもなるし、逆に天皇が「イヤだ」と明確に口にされても、天皇を罷免して新天皇を即位させるなどということはできないわけです。今上陛下を信じて、人柄頼みな要素は今もあるわけです。

昭和天皇が好きなテレビ番組を尋ねられて、「昨今はテレビ局同士の競争も激しく、具体的な番組名を言うことは差し控えたい」と回答されたエピソードを待つまでもなく、「皇室御用達」(制度としては現存していない)のお店で買おうとかいう例を見ても、やはりその影響力は厳然とあるわけです。それを濫用しないという天皇家への信頼で成り立っているのが現状と言えるでしょう。

考えてみれば、奈良の律令体制を過ぎてから、日本はそうした「ゴム印天皇家」を戴いてきたわけです。藤原摂関政治院政、武士政権でも同じで、すべて天皇に奏上し、認可を得てきたわけです。つまり、「聞いて頷く」という権力行使をしてきたので、お飾りではなかったわけですね。お飾りならさっさと挿げ替えてしまえばよいわけですから。藤原摂関家上皇に統治を「外注」してきたわけです。それは、天皇家に軍隊がないという事実からも分かります。

天皇家には検非違使や衛兵はいましたが、それらは軍隊ではなく都を守る警察力です。世界中の歴史を見ても、為政者の居宅が簡単に乗り越えられる1メートルちょっとの壁だけで仕切られているのは類を見ないことでしょう。天皇の居宅である御所には、堅牢な防御壁も堀もなく、平地に建っています。貴族と兵士の区別がない時代はともかく(坂上田村麻呂征夷大将軍でしたが、彼を武士と見ることはありません)、平安時代の後期に武士が誕生すると、統治は武家へ丸投げします。

それから鎌倉、室町、江戸と武家の時代が続きますが、天皇家は「何が起きているのかを知る・聞かされる」という形で、絶えることなく続いています。しかし、奇妙なことに、統治行為が朝廷(宮廷)から外へ出ると、今度はここでも「二重構造」が現れます。鎌倉幕府における執権、室町幕府における管領江戸幕府における大老ないし老中であり、やがて将軍家は「報告を受けるだけ」の存在になっていきます。それでも、将軍が「聞いた・知った」というゴム印は、合議制の意思統一、つまり、過程ではさまざまな意見があったけれども、これに決まりましたと衆を一つにする働きがあったわけです。

ある意味で、西洋近代でいうところの「一般意思」、あるいは中国でいうところの「天命」を表象する存在だったわけです。形にならない、目に見えないものを偶像化する手段として、天皇が必要だったとすれば、人類の社会に共通して必要なものだったということができます。政府が「一般意思」ないしは「天命」に逆らったとなれば革命が起き、政府の交代が起きますが、コミュニティから外在する神懸かった自然法的な「一般意思」ないし人間界にはない「天命」は、担当する人間を変えることを可能としましたが、天皇はコミュニティに内在するため、万世一系となり得たのではないでしょうか。

江戸以降を考えても、明治時代から第二次世界大戦までの天皇親政にも「元老」という外注先があったし、最後の元老たる西園寺公望の死後は軍部がそれを担いました。余談ですが、現代の会社にも承認をするだけの社長と遣り手の専務というような構図はよくある形です。日本社会の至るところにこうした「二重構造」は看て取れます。いわゆる「お墨付き」をもって正当性を確保する「手続き」は社会に根付いています。

こうして統治行為を軍事力を持つ外注先へと丸投げしてきたわけですが、戦後はこれをアメリカ合衆国に丸投げしたんですよね。だから、日本は対米従属せざるをえないし、アメリカの意向を受けた法律や制度が作られてきたわけです。江戸時代に朝廷が幕府の言いなりだったのと同じと考えればいいわけです。戦後の日本はまるごと軍事力をアメリカに外注してきたわけです。沖縄の米軍基地を「少なくとも県外」と主張して選挙で選ばれた日本国総理大臣が、アメリカ大統領や国務長官ではなく、ペンタゴンの反対を受けて、あっさりと引き下がったとき、アメリカに対する批判よりも日本の総理大臣に対する批判のほうが強かったことから考えても、日本ではアメリカの内政介入は自然なことだったわけです。

だから、対米従属をやめたいのであれば、あるいはアメリカの顔色を窺いたくなければ、あるいは「アメリカがクシャミをすれば日本は風邪を引く」と陰口を叩かれたくなければ、日本はアメリカへの軍事力の外注をやめ、自前で軍事力を持っていかなければならなくなるわけです。21世紀の討幕運動ですね。明治の頃、徳川家が公爵として残り、貴族院に隠然たる勢力を確保したことからも、アメリカへの外注をやめたところで、アメリカとの関係が破綻することなくやっていける道を見いだせると思います。

というよりも、アメリカにとっては合理的に日本占領計画を自国の利に叶うようにやってきただけであって、日本の事情なんか知ったことではないでしょう。トランプ大統領の誕生を受けて、新しいナショナリズムアングロ・サクソン国家で台頭してきた今(英国のEU離脱も新しいナショナリズムの形でしょう)、日本は自前の軍事力を持たなければならないでしょう。でなければ、戦国時代の様相を呈するか、日本史上で類を見ない無秩序や混乱が起きるのではないでしょうか。日本全国を覆うような軍事力が欠けることになるのですから。

ちなみに、内閣は天皇に対しての責務を負っていないから必要性も制度としてもないけれども、現在でもなお「内奏」(国務大臣による)や「ご進講」(高級官僚や学者による)という名の「聞いて知ってもらう」という権力行使は続いています。

歴史はイギリスから始まる

アメリカ大統領選挙が予想外な結果に終わり、驚きを持ってその結果を受け止めた。もっとも、僕の知性が愚かだから驚きであったのかもしれない。

今年9月27日のブログ記事「米国の大統領選」の中で、長い大統領選は候補者も国民も双方が国政について学び、考えるよい機会だと述べた。その文脈では、時間をかけて多角的に冷静に考えられるので、最適な答えを見い出すと、アメリカの知性に信頼と期待を寄せているというような文章になっている。つまりは、ヒラリーが当選するだろうと予測していた。

今日発売のThe Economistによると、ヒラリーは伝統的な支配階層に属するがゆえに負けたとある。ちなみに、The Economist紙も同じエリート層に属すると自虐的に書いているところは面白い。そして、その指摘するところは、戦後に築き上げてきた自由貿易と西側自由民主義体制への、歴史の再襲である。

とするならば、この労働者階級と支配者(富裕者)階級の政治意識の乖離は、今年6月の英国のEU離脱から始まっていることになる。マスコミもトランプ氏の攻撃対象となり(ヒラリー支持57社に対してトランプ支持2社)、既得権益者としてのマスコミの国民との乖離(信用されていない度合い)という視点から見れば、我が国の都知事選挙でも同様であった。

フランス人のエマニュエル・トッド氏の歴史観に拠れば、いわゆるアングロ・サクソン秩序が挑戦を受けているとなろう。自由と民主主義を国是として掲げるアメリカにおいて、社会主義を公然と標榜するサンダーズ候補が登場したことからも、既存の体制が試練を受けていることを読み取れる。代表制民主主義の仕組みを生み出し、産業革命を最初に開始した英国は、各時代を切り拓いてきたが、その終焉においても真っ先に幕を切ったということになるのだろうか。

それにしても、アングロ・サクソン・システムが、英米というアングロ・サクソンの国々から崩壊を始めたことは興味深い現象である。とはいえ、200年以上にわたって世界のスタンダードとして通用してきたモノサシが使い物にならなくなる。今の我々は価値観の定まらない非常に不安定な地表に立っている。さまざまな激動がある中で、価値観の激動ほど困難なものはあるまい。今回のアメリカ大統領選挙は、従来の価値観に囚われることなく、社会現象を見つめていきたいと反省する機会となった。

政治家の資質

TPPを巡る国会の攻防戦が続いているが、民進党は非常に見苦しい。党首の「あなたがそれを言うか」という発言が相次ぎ、自ら身を正すべきではないかと呆れつつ、ニュースに接している。あのいつも立てている長い襟を正すべきと思いながら。もし僕の発言が不当であれば、件の人物の説明責任が一国民たる僕に届いていないということだ。

しかし、今日、それよりももっと非常に腹立たしい映像を見た。以下は朝日テレビ系列のニュース映像のスクリーン・ショットである。

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なにが腹立たしいかと言えば、皇室の政治利用である。今上陛下は譲位について政治的発言とならないように最大限の注意を払われた。昭和天皇は、いかなる発言も政治的に利用されないよう、受け答えを「あ、そう」に定められた。お二方とも憲法に定められた立憲君主制の枠組みを踏み外さないように、きわめて注意深く努めている。権力を持つ者として、権力の行使には非常に慎重であるということだ。いかに政治的権力は持たないと定めたところで、陛下のご発言による影響力は大きいからだ。権力に対して非常に自覚的である

一方で、制定法上でも実質でも権力を持つ「政治家」にあって、その権力行使は非常に無自覚的である。山本大臣よりも深い反省と謝罪が必要な発言であろうと思う。政治的責任は政治家が負うものであって、陛下には及ばないようにすることこそ、政治家の務めである。天皇の国事行為はすべて内閣の助言と承認を必要とする。これこそ、皇室の政治利用をさせない仕組みなのである。それなのに、政治家の側がそれを政治の場に持ち込んだ。

皇室の側が憲法を守り、護憲の精神を貴んでいるのに対し、民進党の政治家の側は憲法を蔑ろにしているか、軽んじているように感じる。憲法で定められた仕組みを弄んでいるか、政争の具に持ち出してきているように感じる。日常で護憲を叫んでいる人たちだからこそ、ゆゆしきことだと思う。その意味するところをきちんと学び、尊重して欲しい。憲法は第9条だけではない。

前回の投稿でも今回の投稿でも、僕自身が改憲か護憲かどちらの立場なのかは明確にしていない。それは、ここではそれが問題ではないからだ。政治家に論理一貫して欲しいと望んでいるに過ぎない。その意味で、現状、その提案する内容の是非はともかく、一貫性や論理性、説得力ある行動は、与党のほうが勝っていると判断しているに過ぎない。政策内容への是非を検討することなく、どちらの主張が耳を傾けられるかという、実に次元の低い政治論を展開している。しかしながら、それが必要とされる現実がある。

政治家の品位の低さは、海を越えたアメリカでも同様である。週が明けた火曜日にはアメリカ新大統領が決まる。選ぶ語彙、話し方のどちらにおいても品位を感じない。となると、フィリピンの大統領もそうであった。韓国でも大統領の行為に対する口汚い批判が横行している。綺麗事を並べ立てるよりも、「ぶっちゃけたこと」を赤裸々に語ることのほうが受けている。時代はそうなのかもしれない。

ここまで考えて、ふと、果たして政治家に品位が必要な素質なのだろうか、と。能力さえあれば品位は二の次というのが政治家に求められることであろうか。確かに、第一の素質は政策立案能力ではある。しかし、「批判する政党ではなく、対案を出していく政党に生まれ変わる」と宣言を出した政党の、相変わらずの批判と議論に参加しない姿勢には、品位以前の問題があるのだろう。ここまで考えて、賛否はあるものの、犯罪数を劇的に減らした品位のない大統領を戴く国民を羨ましくすら感じてしまう自分がいた。

欺瞞の世界

核兵器を法的に禁止する初めての条約の制定を目指す決議案が国連総会の委員会で採決にかけられ、123か国の賛成多数で採択された。この決議はオーストリアなど核兵器を保有しない50か国以上が共同で提案したもので、核兵器を法的に禁止する初めての条約の制定を目指して、来年3月からニューヨークで交渉を始めるとしている。

決議案は、日本時間28日朝、ニューヨークで開かれている国連総会の第1委員会で採決にかけられ、賛成123、反対38、棄権16の、賛成多数で採択された。採決では、核兵器の保有国のうちアメリカやロシアなどが反対したのに対し、中国やインド、パキスタンは棄権した。また、日本は、核軍縮は核保有国と非保有国が協力して段階的に進めるべきだとして、反対に回った。

こうした「防衛」に関するニュースに触れるたび、「建前」と「本音」、「現実」と「理屈」の衝突を感じずにはいられない。

いわゆる護憲派(第9条)・平和主義という「建前」と「理屈」に対して、政府の現実的対応の衝突である。この政府の現実的対応は、たとえば、今回の決議で言えば、アメリカからの強い要請に応じて日本は反対に回ったといわれるような、対米従属が批判されることにもなる。この構図は何なのか。

原則に戻って、第9条から考えると、日本は「国際平和を誠実に希求」して、「戦争と武力の行使」を永久放棄している。この実現のために「戦力は保持」しないとしているのが第9条の骨格であろう。これを文字通りに解釈すれば、自衛隊の存立する余地はない。自衛隊を「戦力」と見なさないのには無理がある。この点では、護憲派や平和主義者は正しい。しかし、戦後70年間、日本はこれによって平和を貫いてきたというのが護憲派や平和主義者の主張は、欺瞞である。

というのも、戦後の冷戦構造の中で、日本は「まともな戦力」を有しなくとも、日米安全保障条約を通して、世界最強のアメリカ軍を傭兵のように後ろ盾としてきたという現実から目を逸らしているからである。日本が平和を維持するためには、「戦力」を間接的に海外において、現実には国内に外国基地を抱えることによって、「戦力」を保持してきたからに他ならない。つまり、日本の平和はアメリカとの良好な関係を維持することによって保証されてきた。現実世界では、平和を維持することは戦力を保持することと等位なのである。

このことはそのまま、いわゆる「対米従属」を招く。つまり、「対外国従属」は日本が憲法によって定めたともいえるような「構造的問題」なのである。およそ独立国家は自国防衛の義務を負っている。近代民主国家の基本が国民の「生命と財産を守る」ということである以上、国家の自国防衛は義務である。それを憲法によって縛るのであれば、現実的に国民の「生命と財産」を守るためには外国(同盟国)に拠らざるを得なくなる。

護憲派や平和主義者が「戦力の放棄」を主張するのであれば、彼らは国防をどうするのかに答えなければならない。戦力を持たずして国家の基本たる国民の「生命と財産を守る」役割をどのように達するのかについて、対案を示さなければならない。どのようにして「国際平和を誠実に希求」するのかという問題である。この答えを示さずに反対と批判のみに終始するような政党は不要である。

政府は政府で、過去の「自衛隊は自衛力であり、戦力にあたらない」という理屈の通らないむちゃくちゃな解釈による欺瞞を続けていないで、きちんと憲法論議を果たしていかなければならないだろう。それを受けて、国会では与党野党を問わず、憲法論議に向き合わなければならない。昨年成立した集団的自衛権の行使を一部容認する法律に則って、今般、南スーダンでの「駆けつけ警護」訓練が耳目を集めているが、これとて現実的選択であるが理屈は通っていない状態なのである。政府の欺瞞が批判の対象になることもまた、自然である。

問題は国家の成立要件たる「自国防衛」である。さらに原則論を言えば、憲法は国家があって初めて成り立つ。憲法を守って国が滅ぶようなら元も子もない。「建前」や憲法条文の解釈をめぐる「理屈」を後生大事にして国家の成立条件を脅かしては、なんのための憲法であろうか。現在の左右両派のそれぞれの欺瞞状態を続けている限り、集団安全保障や自衛隊をめぐって、いつまでも不毛な議論が続いていくことになる。