学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

五輪と支出

最近の東京オリンピックパラリンピックの開催場をめぐる一連の報道を見ていると、かなり穿った見方だし、まともな見方ではないが、掛かる総費用が3兆円に達しても良いのではないかと思うことがある。

というのは、公共事業の目的は、不況時に政府が強引に需要を作り出し、民間にお金を支出して経済を回そうとするものだからである。だから、利権が関わろうとそうでなかろうと、公共事業に変わりはない。30年一昔の話ではあるが、公共事業に利権が関わるのは当然視されていた。いわゆる族議員で国土交通系であれば、少なからず、そういうものであったし、誰もそれを問題視していなかった。むしろ地元に利権をもたらすことが国会議員の役割であったと言っても過言ではなかろう。

それに、そういう利権を目的に群がる人々は、金離れが良いというか、お金を豪勢にじゃんじゃん湯水のごとくに使う傾向にある。本当に必要で最小限度の清廉潔白公共事業になると、おそらく、お金を手にした企業も無駄金をじゃんじゃん使うようなことはせず、堅実に使うであろう。しかし、これでは次から次へと血液のように民間にお金が出回ることはない。余計な、無駄な支出こそが潤滑油たり得る。

東京の財政は潤っているのだし、知事が個人的な贅沢で使うわけでもないのだから、当初予定の数倍になろうとも、使ってしまえば良い。もうけた連中からはそれだけ税金として回収できるし、財布の紐を緩くして放出してもらえば良いのである。利権はいわば必要悪なもので、表沙汰にはしない暗黙の了解事項としてしまえばよいのである。表沙汰にしてしまえば、追求せざるを得なくなる。この意味では、政治家の質が落ちたのである。うまく立ち回っていない。

表向きは表向き、実質は実質と使い分けて実際の生活を成り立たせてきた過去の知惠である。道徳では喰えないのだから。また、衣食足りて礼節を知るのであるから。清廉さ、公明正大さを強く求めて飢え死にすることは、本末転倒である。誤解を招かないように断っておきたいのだが、道徳や公明正大さが無用と言っているのではない。表沙汰になってしまえば、きちんと追求していく姿勢は大切である。

最近は清廉潔白さを極端に求めすぎている、少なくとも、その方向に極度に傾いてはいまいかという疑問がある。今の人々の清廉潔白さを求める傾向は、自らの分け前が十分でないことからくるやっかみやねたみ、羨ましいと思う心情が根本にあるのかも知れないと思うからである。浅ましいことを言うかも知れないが、自らもおこぼれに預かるのであれば、文句がなくなるのが人の性ではなかろうか。清濁を併せ呑む度量が必要なのは、なにも政治家だけではない。なんでもかんでも表に出して綺麗にしていくのが良いとは限らない。

社会や集団よりも個人が尊重され、建て前よりも本音を語り、ぶっちゃけて赤裸々に叙述することが良いとされている今、あくまでも建前と本音の区別にこだわる姿勢こそ評価されてよいのではなかろうか。インターネットの匿名性もあって、人々の飾らない本音、もっと正確に言えば、実生活では社会的トラブルや社会的評価を恐れて口に出来ない本音が表出されるようになってきた。そして、それがメディアなどを通じて表の世界を跳梁するようになってきた。ここに僕は危機感を覚えるのである。

政府や自治体は利潤を追求する必要のない支出団体である。東京だけでは足りず、今度は大阪万博だと触手を広げていくよりも、一つ一つの事業に「余計な装飾」を含めてじゃんじゃん放出してしまえば良いと思う。おこぼれに預かる母体数を増やしてしまえばよい。1つあたりの規模を大きくして、人々の胃袋を満たしてしまうほうが、制限の掛かった小出しの放出よりも効果的であろう。

最後にもう一度繰り返しておくが、これは非常に穿った見方、相当におかしな見方である。しかし、こうした見方があることもまた、否定の出来ない事実だと思う次第である。

議論のルール

かつてインターネット上で「フィンランドの小学5年生が考えた議論のルール」なるものが流れた。これは以下の本で紹介されたものだという。この本の紹介と「議論のルール」を以下に記す。

図解 フィンランド・メソッド入門

図解 フィンランド・メソッド入門

 

1.他人の発言をさえぎらない
2.話すときは、だらだらとしゃべらない
3.話すときに、怒ったり泣いたりしない
4.分からないことがあったら、すぐに質問する
5.話を聞くときは、話している人の目を見る
6.話を聞くときは、他のことをしない
7.最後まで、きちんと話を聞く
8.議論が台無しになるようなことを言わない
9.どのような意見であっても、間違いと決めつけない
10.議論が終わったら、議論の内容の話はしない

さて、我が国の国会では昨日、発言者がヤジに反応して「黙って聞け」と言ったことにたいして、野党から批判が出ている。国会においては「不規則発言」なるヤジについては「なかったこととして無視する」のが慣例である。というのも、それは議事録に載らないからである。ところが、発言者の「黙って聞け」は議事録に載ってしまう。その発言は「国会の品位を貶める」というのである。くだらない。

ヤジのある国会そのものに品位がない。いや、もう少し正確に言うと、ヤジに品位がないのである。僕はヤジそのものには否定的ではない。「良いヤジ」というものはあるからである。ヤジは議論を活性化させるし、ウィットやユーモアに富んだヤジは本質を突いていることも多く、また、それにやはりウィットやユーモアで切り返す様は、政治家の本領発揮というところだからだ。政治家の本文の1つは、スピーチのうまさである。政治家は人々を鼓舞し、説得し、啓蒙して、自らの政策を進めていくものである。

「議論のルール」を見ると、話者への注意は2、3しかないのである。1、4、5、6、7は聴衆への注意である。8~10は、話者に対しても聴衆に対しても通用する。「議論のルール」を定めたものが、話すほうよりも聞く姿勢に重点が置かれていることは注目するべき点であろう。そして、もう1つの注目点は、8~10へ考えが及んでいることである。

「議論が台無しになるようなことを言わない」は、議論を建設的に進めていこうという精神の表れである。議論の参加者が共通して前向きな姿勢でなければ議論は成立しないのである。議論は決して潰し合いではない。討論とは異なり、1足す1を3にも4にもしていくための話し合いこそ議論である。議論で言えば、国民のためにという点では一致していなければならない。相手の足を引っ張ったり、揚げ足をとったり、党利党略のために相手を貶めることでは決してないのである。この視点が抜ければ「国民のほうを見ていない」という批判に繋がる。

「どのような意見であっても、間違いと決めつけない」は、多様性を叫ぶ一方で多様性を排除してしまいがちな日常への警鐘でもある。「差別をする人は絶対に許さない」と他者の存在までも抹殺してしまう原理主義者の存在は、国際政治の中だけではない。理想主義的な「絶対的正義」を振りかざすほど危険なことはない。差別を擁護するわけではないが、「盗人にも三分の理」はあるという姿勢こそ求められる。

最後の「議論が終わったら、議論の内容の話はしない」は、正直、小学生に脱帽した。「議論」のルールなのに、議論の場を離れたところに意識が向けられているからだ。昨日の米大統領選討論会で、議論を終えた後に両候補が笑顔で寄り添い、握手をした場面は、成熟した議論文化のある象徴だと感じた。いろいろな場面で何度も都知事を無視した態度を採り、ないがしろにする都議会の一部には落胆を通り越して呆れてしまう。

それにしても、小学生が実践を目指して決めた「議論のルール」が大人の世界、国政・地方政治の場でもそのまま「守りなさい」と言わなければならないほど出来ていないことは情けないかぎりである。自らへの戒めとしても、意識を続けていかなければならないと思った。

米国の大統領選

クリントン氏とトランプ氏の支持率が拮抗している。クリントン氏が46.6、トランプ氏が44.3である。そして、今日から公開討論が行なわれる。

今日の第1回はニューヨークで開かれ、そのテーマは「内政」である。第2回はミズーリで行なわれ、ここでは有権者からの質問を受け付けるタウン・ミーティング方式である。そして、最終回はネバタで行なわれ、そのテーマは「外交」である。これら討論会は全米に放映され、コマーシャルなしの90分間である。

過去の討論会では、優勢候補が脱落したり、劣勢候補が大きく巻き返したりというようなドラマがあった。2000年の大統領選では、アル・ゴア候補公開討論会で相手候補を馬鹿にしたような態度をとり、これが致命傷となった。政策の検討だけでなく、90分間の態度によって、大統領の資質を見ているのである。

僕はこの米国大統領選挙のシステムを羨ましく思う。この半年以上に及ぶ選挙の過程で、候補者はより大統領らしくなり、有権者はより民主主義にふさわしい知性と判断力を得ていくのである。候補者は公開討論で内政と外交を助言者の手助けなく矛盾することなく乗り切り、なにが飛び出るか分からないタウン・ミーティングに備えて勉強をする。国政の情報を得、自らの主張に矛盾することなく対策を練っていくことになる。有権者のほうは、それを受けてじっくりと検討を重ねることが出来る。

米国の国民は、4年に1回の「民主主義の学校」を経験し、たえず啓蒙されていくのである。これが米国をして大国にふさわしい国にしている一つの要因であると思う。なんのかんのと米国は民主主義の旗艦である。一時の熱情や興奮によって国民が扇動されることなく、衆愚政治に陥ることのないように、一定の歯止めを効かせているのだ。少なくとも、我が国の選挙期間に比べれば、雲泥の差である。短期間であれば国民を欺せても、長期間は難しい。一時の勢いに乗るというものではなく、冷静になって考える時も併せ持ちながら選挙戦が進んでいく利点を思う。

当初、トランプ氏は、こういう意味で一時の勢いに乗った「中身のない」候補だと思っていたのだが、ここまで勝ち残ってくるとは想像だにしなかった。英国のEU離脱投票、東京都知事選挙の例が顕著に示すように、世界の潮流は今や「エスタブリッシュメントvs大衆」の様相を呈している。既存の政党、既存のやり方、既存の体制などというものは、ことごとく敗退している。この意味で、既存の側にいるクリントン氏は公開討論でも苦戦するかもしれない。

クリントン氏は、従来のように、心理学者やファッション・コーディネーターを交え、テレビ映りを強く意識しながら、ありとあらゆる分野の勉強をこなし、トランプ氏に見立てた人物を相手に模擬討論をして、徹底邸に対策を練っている。ありとあらゆる分野の勉強をしていることで、大統領になったときにも困らないわけである。日本のように内実を知らないド素人が大臣になるということはない。ここが僕の評価ポイントなのだが、これが今回は仇になるのかもしれない。

一方のトランプ氏は、自然体と称し、特に何も対策していないという。一見すると無謀にも思えるが、従来型の既存路線が否定される潮流の中で、このかつてない「ぶっつけ本番」がどのような結果をもたらすのか、とても興味深い。コテコテの伝統的勢力と、バリバリのアウト・ローの正面衝突である。しかも、両者とも長期間にわたって国民の審判に耐えてきた強者である。この対決は見物だ。第45代米国大統領および第48代米国副大統領を選出するための2016年11月8日選挙が楽しみである。

怖い熱病

小池都知事がリオ・パラリンピックに旅立つ直前、政治塾を開設する意向を示しました。これは、翌日に自民党都議連が知事選挙の時に小池氏を応援した区議らに離党勧告を出したものに先手を打ったものと思われるが、こうしたあたり、したたかに政治家だなぁと感じた。もともと政治塾なるものはかなり前から構想をちらりと語ってはいたが、具体的な立ち上げに言及したのは、これは初である。タイミングが実に素晴らしい。

自民党から離党するように言われた区議の受け皿をきちんと作り、自分を応援してくれた区議に対して、きちんと義理を果たした。仁義が過去の遺物になりつつある時代に、本当に素晴らしいものだと思う。築地市場豊洲移転については、地下空洞の存在が明らかとなり、当初の予定にないタナボタであろうと思うが、勢いとはこういうことをいうのだろう。小池都知事に追い風である。

しかし、その一方で、小池新党を作ること(政治塾の立ち上げ)を受けて、都自民党にいては落選する、小池新党に入れば当選するというような風潮に危惧を覚える。一時期の民主党政権待望論の時のように、あるいは大阪維新旋風の時のように、世の中一色になってしまう日本の空気感がどうも好きになれない。前述のように小池都知事は素晴らしいと絶賛する気持ちがある一方で、世の中が一色に染まっていくと、一歩引いてしまう自分がいる。熱狂の中に身を置きたくないのだ。冷静な判断ができなくなるからである。

もちろん、この熱病はトランプ氏やサンダース氏、あるいは英国のEU離脱投票など、日本に限らず広く見られる現象である。このあたりの考察は今後とも深めていきたいと思う次第である。

ともかく、橋下大阪維新の時のように、小池都知事の勢いが一時のものとならないよう、身のあるものとして結実していくよう、応援したい。劇場型の政治といわれて久しく、小池都知事の手法はまさに典型的な劇場型政治であるが、有権者が踊らされなければ、劇場型であってもかまわない。有権者一人びとりがきちんと考えられさえすればいいのである。政治家は勢いに乗って改革を進めることは、運も含めて実力なので良いのだが、有権者のほうは勢いで判断しないようにしたいものである。

「都民ファースト」の危うさ

小池都政が本格的に始動した。築地市場豊洲移転の延期を決め、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会評議会議長の森喜朗氏との会談もすべてマスコミに公開しての会議とするなど、矢継ぎ早に行動している。9月28日から始まる都議会へ向けて、副都知事人事や予算審議など、着々と準備を進めているところであろう。

しかし、この一連の活動を見ていて、一つ、気になることがある。議会と対立している小池都知事にとっては、都民を支持母体としている以上、都民への働きかけは不可欠である。だから、「都民ファースト」という掛け声とともに都知事選挙以降も都民を引きつける「劇場型政治」を続けている。しかし、この「都民ファースト」にこそ、世界の潮流を看て取れるのである。

基本的な構図は、「都議会のドン」こと内田茂氏との対立である。ちょっと話はずれるが、そもそも「都議会のドン」は誰が名付けたのだろう。「鉄の女」とか「目白の闇将軍」とか「政界の団十郎」とか「鈍牛」とか「冷めたピザ」とか、総理大臣や大物政治家にニックネームがつくのは分かる。マスコミも注目しているのだから。しかし、都議会自民党の一地方議員のことは、今回の都知事選挙以前には表には出てこなかった。「ドン」なのにいきなり登場した感がある。地元では言われ続けていたのだろうか。

話を戻すと、ここで言いたいのは、「劇場型政治」の特徴であるイメージ先行ないしはレッテル張りが起こり、事態を正しく認識できなくなる「世論の熱病」が発症しないかという懸念である。

小池都知事と都議会の対立は、古くは小泉元総理大臣の「自民党をぶっ壊す!」とか、橋下前大阪府知事大阪市長の府市議会との対立にも存在した構図であるが、それだけではない。今回の現象は、同時に英国のEU離脱国民投票、そしてアメリカのサンダース氏やトランプ氏による旋風と同じで、エスタブリッシュメント(既存の支配階級)に対する国民(都民)の不満を背景にしているのである。

既存の支配者階級たるエスタブリッシュメントが国民(都民)の気持ちを充分に汲み取れていないという不満が、小池都政を過激にしてしまうことが懸念される。これは「熱情」なので、一気に盛り上がって既存のものを破壊してしまう。既存のものがすべて悪いわけではない。英国でのEU離脱の例にもあるように、あるいはトランプ氏を大統領候補に選んでしまった共和党に見られるように、一度現実化すると後悔の念が沸き起こるものである。

既存のものだから悪いのではない。制度としてはきちんとしている。運用の仕方、つまりは人の問題である。しかも、これは一人二人の話ではなく、長年の慣習とも言うべき積み重ねである。人憎しとて制度まで破壊してしまっては、新制度の構築が間に合わず、混乱へと導かれるであろう。

「罪を憎んで人を憎まず」とは、出典が孔子とも聖書とも言われ、大岡政談の一節としても有名であるが、この精神を忘れてはならないと思う。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」かのように制度まで滅ぼしていってはならないのである。小池都知事を応援するあまり、既存のものを悪弊として一緒くたに攻撃してしまっては、後悔するのはここでも「都民ファースト」なのである。

勧善懲悪は日本人の大好きな構図であるため、大きな人気を呼び、言動がエスカレートしていってしまうが、そこで一歩立ち止まり、冷静に考える一コマを持つ心の余裕を涵養しなければならない。そうでなければ、イギリスやアメリカの教訓を学んでいないことになる。完全なる善や完全なる悪は存在しない。それに、悪にも「必要悪」という効能もある。日本人のもう一つの特徴、グレー・ゾーンに身を委ねる性質をここでも発揮しなくてはならないだろう。中庸である。善の行き過ぎは悪にもなるのだから。

長谷川慶太郎について

長谷川慶太郎と言えば、1980年代から1990年代前半までのオピニオンリーダーだったと思う。彼の広い人脈と精力的な行動に裏打ちされた取材、その結果としての著作物には、中高大生の僕にとってワクワクさせられるものであった。世界へと目を開き、見知らぬ情報の海へと漕ぎ出す格好の道案内であった。彼の分析は経済に基軸を置きつつ、政治と軍事にまで及ぶもので、近年はこうしたオピニオン・リーダーがいなくなったと淋しく思っていたものだった。

2000年を前に僕が彼の著作物を読まなくなったのは、ITの世界に彼がついてきていないと感じたからであり、冷戦構造などの過去のフレームワークから逃れられないと感じたからであり、竹下首相の懐刀としての役割も東京佐川急便事件(1992年)以降はなくなったと思ったからである。つまりは、考え方や分析が、やや時代遅れのように感じたということである。

しかし、今年89歳になる長谷川氏のここしばらくの著作には再び鋭さが戻ってきたように感じる。それにしても、89歳にして、この頻度の出版活動には恐れ入るとしか言い様がない。しかも、取材活動は往年のそれと比べても遜色がないようだ。とりわけ、中国周辺の分析には感じ入ることが多い。語弊を恐れずに言えば、中国を取り巻く理屈が冷戦構造というか、一昔前の論理だからであろうとも思う。中国の「戦勝国である」という意識や、経済活動の興隆が領土の拡張に向かう意識、戦勝国かつ経済大国が国際秩序を構築できるのだという発想に繋がる意識が、一昔前の論理なのだ。

あわせて、欧米に中国の専門家がいない。思想文化背景までを古代にまで遡って付き合ってきた日本の風土での理解には、やはり欧米の専門家は及ばないのだ。ドイツやイギリスが中国に擦り寄り、経済協力やAIIB構想に乗ってきているのは、ヨーロッパに中国の専門家がいない証左であると言えるだろう。また、日本で長らく言われてきた「中国経済の崩壊」がなぜなかなか崩壊しないのかについて、長谷川氏ほど説得力のある答えを他からは聞いたことがない。

政治経済軍事にまで及ぶ広い視座から今ここにあることを分析できる専門家が絶えて久しいと思っていたが、89歳の老翁が若い世代の我々を叱咤激励している声が聞こえてくるようである。「すごいなぁ」と圧倒されているだけではダメなのだなぁと自らを奮い立たせられた。氏には遠く及ばないことは百も承知で、それでも追いかけていくことは止むことのないようにしようと決意を新たにしたところである。

中国の変調

2016年8月16日配信の日経記事だが、これを読んで僕は記事にあることとは違うことを感じた。『円高や株安で海外の投資家や富裕層が購入していた「億ション」の動きが鈍っている』とのことだが、本文では台湾人が挙げられているが、これは主に中国人のことであろうと思われる。いわゆる「爆買い」は中国人によるものがメインだったはずである。

2015年11月30日、IMFは中国の通貨「元」を2016年10月からSDR(特別通貨引き出し権)に採用することを決めた。SDRとは、危機に直面したIMF加盟国が仮想の準備通貨であるSDRと引き換えに他の加盟国からドル・ポンド・ユーロ・円という通貨バスケットにある通貨を融通してもらう仕組みであるが、ここにポンドと円を上回る比率で中国の「元」が今年10月から加わることとなった。

SDRの条件として、中国はドルペッグを解消し、さらには通貨の自由性を確保しなければならない。つまり、市場における変動を認めることになる。ドルペッグによって価値を引き上げられていた元がそのリンクを失えば、自由市場における元の価値は実際の価値まで下落することになるだろう。それは大きな下落幅となることは間違いない。

だから、中国の富裕層は海外に資産を持ち出しているのだ。政府の上層部も海外に資産を買う。そうして、中国経済が暴落すれば、海外に移住して不動産を売り払い、そのお金でその後を成り立たせようというのである。だから、家電や雑貨を爆買いする一般的な中国人ではなく、不動産を買っている中国人に注目をすべきなのだ。動産では政府に取り上げられるかもしれず、不動産に投資しているのである。

しかし、なんとしても元をSDRに加えたかった中国政府は、資金流出にストップをかけることが出来ない。ストップをかければ、それはSDR加盟条件である自由取引に待ったをかけることになるからだ。それを知っているからこそ、中国の富裕層や政府上層部は今こそ億ションでもなんでも買い入れてきたのである。中国人の爆買いにも、ちゃんと背景があるのである。庶民の爆買いも同じ路線だが、金額の過多により、より注目するべきものがどちらかは明白であろう。

その爆買いが止まった。中国政府が資産流出に耐えきれず、ストップをかけたと考えられる。10月のSDR適用後を待つことなく、混乱が始まったと見ることも出来る。僕は10月以降に徐々に西側の金融ルールに組み込まれ、資金不足の中国に欧米資本が入り込み、経済支配をするだろうと思っていたが、その前に大混乱が起きるかもしれない。

中国経済バブル崩壊、経済破綻はずいぶんと前から言われ続けてきたが、習近平氏の指導力不足と外交下手とも相まって、いよいよ本格的なカウントダウンに入った感がある。中国市場の行方に要注意・要注目である。