学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

米国の大統領選

クリントン氏とトランプ氏の支持率が拮抗している。クリントン氏が46.6、トランプ氏が44.3である。そして、今日から公開討論が行なわれる。

今日の第1回はニューヨークで開かれ、そのテーマは「内政」である。第2回はミズーリで行なわれ、ここでは有権者からの質問を受け付けるタウン・ミーティング方式である。そして、最終回はネバタで行なわれ、そのテーマは「外交」である。これら討論会は全米に放映され、コマーシャルなしの90分間である。

過去の討論会では、優勢候補が脱落したり、劣勢候補が大きく巻き返したりというようなドラマがあった。2000年の大統領選では、アル・ゴア候補公開討論会で相手候補を馬鹿にしたような態度をとり、これが致命傷となった。政策の検討だけでなく、90分間の態度によって、大統領の資質を見ているのである。

僕はこの米国大統領選挙のシステムを羨ましく思う。この半年以上に及ぶ選挙の過程で、候補者はより大統領らしくなり、有権者はより民主主義にふさわしい知性と判断力を得ていくのである。候補者は公開討論で内政と外交を助言者の手助けなく矛盾することなく乗り切り、なにが飛び出るか分からないタウン・ミーティングに備えて勉強をする。国政の情報を得、自らの主張に矛盾することなく対策を練っていくことになる。有権者のほうは、それを受けてじっくりと検討を重ねることが出来る。

米国の国民は、4年に1回の「民主主義の学校」を経験し、たえず啓蒙されていくのである。これが米国をして大国にふさわしい国にしている一つの要因であると思う。なんのかんのと米国は民主主義の旗艦である。一時の熱情や興奮によって国民が扇動されることなく、衆愚政治に陥ることのないように、一定の歯止めを効かせているのだ。少なくとも、我が国の選挙期間に比べれば、雲泥の差である。短期間であれば国民を欺せても、長期間は難しい。一時の勢いに乗るというものではなく、冷静になって考える時も併せ持ちながら選挙戦が進んでいく利点を思う。

当初、トランプ氏は、こういう意味で一時の勢いに乗った「中身のない」候補だと思っていたのだが、ここまで勝ち残ってくるとは想像だにしなかった。英国のEU離脱投票、東京都知事選挙の例が顕著に示すように、世界の潮流は今や「エスタブリッシュメントvs大衆」の様相を呈している。既存の政党、既存のやり方、既存の体制などというものは、ことごとく敗退している。この意味で、既存の側にいるクリントン氏は公開討論でも苦戦するかもしれない。

クリントン氏は、従来のように、心理学者やファッション・コーディネーターを交え、テレビ映りを強く意識しながら、ありとあらゆる分野の勉強をこなし、トランプ氏に見立てた人物を相手に模擬討論をして、徹底邸に対策を練っている。ありとあらゆる分野の勉強をしていることで、大統領になったときにも困らないわけである。日本のように内実を知らないド素人が大臣になるということはない。ここが僕の評価ポイントなのだが、これが今回は仇になるのかもしれない。

一方のトランプ氏は、自然体と称し、特に何も対策していないという。一見すると無謀にも思えるが、従来型の既存路線が否定される潮流の中で、このかつてない「ぶっつけ本番」がどのような結果をもたらすのか、とても興味深い。コテコテの伝統的勢力と、バリバリのアウト・ローの正面衝突である。しかも、両者とも長期間にわたって国民の審判に耐えてきた強者である。この対決は見物だ。第45代米国大統領および第48代米国副大統領を選出するための2016年11月8日選挙が楽しみである。

怖い熱病

小池都知事がリオ・パラリンピックに旅立つ直前、政治塾を開設する意向を示しました。これは、翌日に自民党都議連が知事選挙の時に小池氏を応援した区議らに離党勧告を出したものに先手を打ったものと思われるが、こうしたあたり、したたかに政治家だなぁと感じた。もともと政治塾なるものはかなり前から構想をちらりと語ってはいたが、具体的な立ち上げに言及したのは、これは初である。タイミングが実に素晴らしい。

自民党から離党するように言われた区議の受け皿をきちんと作り、自分を応援してくれた区議に対して、きちんと義理を果たした。仁義が過去の遺物になりつつある時代に、本当に素晴らしいものだと思う。築地市場豊洲移転については、地下空洞の存在が明らかとなり、当初の予定にないタナボタであろうと思うが、勢いとはこういうことをいうのだろう。小池都知事に追い風である。

しかし、その一方で、小池新党を作ること(政治塾の立ち上げ)を受けて、都自民党にいては落選する、小池新党に入れば当選するというような風潮に危惧を覚える。一時期の民主党政権待望論の時のように、あるいは大阪維新旋風の時のように、世の中一色になってしまう日本の空気感がどうも好きになれない。前述のように小池都知事は素晴らしいと絶賛する気持ちがある一方で、世の中が一色に染まっていくと、一歩引いてしまう自分がいる。熱狂の中に身を置きたくないのだ。冷静な判断ができなくなるからである。

もちろん、この熱病はトランプ氏やサンダース氏、あるいは英国のEU離脱投票など、日本に限らず広く見られる現象である。このあたりの考察は今後とも深めていきたいと思う次第である。

ともかく、橋下大阪維新の時のように、小池都知事の勢いが一時のものとならないよう、身のあるものとして結実していくよう、応援したい。劇場型の政治といわれて久しく、小池都知事の手法はまさに典型的な劇場型政治であるが、有権者が踊らされなければ、劇場型であってもかまわない。有権者一人びとりがきちんと考えられさえすればいいのである。政治家は勢いに乗って改革を進めることは、運も含めて実力なので良いのだが、有権者のほうは勢いで判断しないようにしたいものである。

「都民ファースト」の危うさ

小池都政が本格的に始動した。築地市場豊洲移転の延期を決め、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会評議会議長の森喜朗氏との会談もすべてマスコミに公開しての会議とするなど、矢継ぎ早に行動している。9月28日から始まる都議会へ向けて、副都知事人事や予算審議など、着々と準備を進めているところであろう。

しかし、この一連の活動を見ていて、一つ、気になることがある。議会と対立している小池都知事にとっては、都民を支持母体としている以上、都民への働きかけは不可欠である。だから、「都民ファースト」という掛け声とともに都知事選挙以降も都民を引きつける「劇場型政治」を続けている。しかし、この「都民ファースト」にこそ、世界の潮流を看て取れるのである。

基本的な構図は、「都議会のドン」こと内田茂氏との対立である。ちょっと話はずれるが、そもそも「都議会のドン」は誰が名付けたのだろう。「鉄の女」とか「目白の闇将軍」とか「政界の団十郎」とか「鈍牛」とか「冷めたピザ」とか、総理大臣や大物政治家にニックネームがつくのは分かる。マスコミも注目しているのだから。しかし、都議会自民党の一地方議員のことは、今回の都知事選挙以前には表には出てこなかった。「ドン」なのにいきなり登場した感がある。地元では言われ続けていたのだろうか。

話を戻すと、ここで言いたいのは、「劇場型政治」の特徴であるイメージ先行ないしはレッテル張りが起こり、事態を正しく認識できなくなる「世論の熱病」が発症しないかという懸念である。

小池都知事と都議会の対立は、古くは小泉元総理大臣の「自民党をぶっ壊す!」とか、橋下前大阪府知事大阪市長の府市議会との対立にも存在した構図であるが、それだけではない。今回の現象は、同時に英国のEU離脱国民投票、そしてアメリカのサンダース氏やトランプ氏による旋風と同じで、エスタブリッシュメント(既存の支配階級)に対する国民(都民)の不満を背景にしているのである。

既存の支配者階級たるエスタブリッシュメントが国民(都民)の気持ちを充分に汲み取れていないという不満が、小池都政を過激にしてしまうことが懸念される。これは「熱情」なので、一気に盛り上がって既存のものを破壊してしまう。既存のものがすべて悪いわけではない。英国でのEU離脱の例にもあるように、あるいはトランプ氏を大統領候補に選んでしまった共和党に見られるように、一度現実化すると後悔の念が沸き起こるものである。

既存のものだから悪いのではない。制度としてはきちんとしている。運用の仕方、つまりは人の問題である。しかも、これは一人二人の話ではなく、長年の慣習とも言うべき積み重ねである。人憎しとて制度まで破壊してしまっては、新制度の構築が間に合わず、混乱へと導かれるであろう。

「罪を憎んで人を憎まず」とは、出典が孔子とも聖書とも言われ、大岡政談の一節としても有名であるが、この精神を忘れてはならないと思う。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」かのように制度まで滅ぼしていってはならないのである。小池都知事を応援するあまり、既存のものを悪弊として一緒くたに攻撃してしまっては、後悔するのはここでも「都民ファースト」なのである。

勧善懲悪は日本人の大好きな構図であるため、大きな人気を呼び、言動がエスカレートしていってしまうが、そこで一歩立ち止まり、冷静に考える一コマを持つ心の余裕を涵養しなければならない。そうでなければ、イギリスやアメリカの教訓を学んでいないことになる。完全なる善や完全なる悪は存在しない。それに、悪にも「必要悪」という効能もある。日本人のもう一つの特徴、グレー・ゾーンに身を委ねる性質をここでも発揮しなくてはならないだろう。中庸である。善の行き過ぎは悪にもなるのだから。

長谷川慶太郎について

長谷川慶太郎と言えば、1980年代から1990年代前半までのオピニオンリーダーだったと思う。彼の広い人脈と精力的な行動に裏打ちされた取材、その結果としての著作物には、中高大生の僕にとってワクワクさせられるものであった。世界へと目を開き、見知らぬ情報の海へと漕ぎ出す格好の道案内であった。彼の分析は経済に基軸を置きつつ、政治と軍事にまで及ぶもので、近年はこうしたオピニオン・リーダーがいなくなったと淋しく思っていたものだった。

2000年を前に僕が彼の著作物を読まなくなったのは、ITの世界に彼がついてきていないと感じたからであり、冷戦構造などの過去のフレームワークから逃れられないと感じたからであり、竹下首相の懐刀としての役割も東京佐川急便事件(1992年)以降はなくなったと思ったからである。つまりは、考え方や分析が、やや時代遅れのように感じたということである。

しかし、今年89歳になる長谷川氏のここしばらくの著作には再び鋭さが戻ってきたように感じる。それにしても、89歳にして、この頻度の出版活動には恐れ入るとしか言い様がない。しかも、取材活動は往年のそれと比べても遜色がないようだ。とりわけ、中国周辺の分析には感じ入ることが多い。語弊を恐れずに言えば、中国を取り巻く理屈が冷戦構造というか、一昔前の論理だからであろうとも思う。中国の「戦勝国である」という意識や、経済活動の興隆が領土の拡張に向かう意識、戦勝国かつ経済大国が国際秩序を構築できるのだという発想に繋がる意識が、一昔前の論理なのだ。

あわせて、欧米に中国の専門家がいない。思想文化背景までを古代にまで遡って付き合ってきた日本の風土での理解には、やはり欧米の専門家は及ばないのだ。ドイツやイギリスが中国に擦り寄り、経済協力やAIIB構想に乗ってきているのは、ヨーロッパに中国の専門家がいない証左であると言えるだろう。また、日本で長らく言われてきた「中国経済の崩壊」がなぜなかなか崩壊しないのかについて、長谷川氏ほど説得力のある答えを他からは聞いたことがない。

政治経済軍事にまで及ぶ広い視座から今ここにあることを分析できる専門家が絶えて久しいと思っていたが、89歳の老翁が若い世代の我々を叱咤激励している声が聞こえてくるようである。「すごいなぁ」と圧倒されているだけではダメなのだなぁと自らを奮い立たせられた。氏には遠く及ばないことは百も承知で、それでも追いかけていくことは止むことのないようにしようと決意を新たにしたところである。

中国の変調

2016年8月16日配信の日経記事だが、これを読んで僕は記事にあることとは違うことを感じた。『円高や株安で海外の投資家や富裕層が購入していた「億ション」の動きが鈍っている』とのことだが、本文では台湾人が挙げられているが、これは主に中国人のことであろうと思われる。いわゆる「爆買い」は中国人によるものがメインだったはずである。

2015年11月30日、IMFは中国の通貨「元」を2016年10月からSDR(特別通貨引き出し権)に採用することを決めた。SDRとは、危機に直面したIMF加盟国が仮想の準備通貨であるSDRと引き換えに他の加盟国からドル・ポンド・ユーロ・円という通貨バスケットにある通貨を融通してもらう仕組みであるが、ここにポンドと円を上回る比率で中国の「元」が今年10月から加わることとなった。

SDRの条件として、中国はドルペッグを解消し、さらには通貨の自由性を確保しなければならない。つまり、市場における変動を認めることになる。ドルペッグによって価値を引き上げられていた元がそのリンクを失えば、自由市場における元の価値は実際の価値まで下落することになるだろう。それは大きな下落幅となることは間違いない。

だから、中国の富裕層は海外に資産を持ち出しているのだ。政府の上層部も海外に資産を買う。そうして、中国経済が暴落すれば、海外に移住して不動産を売り払い、そのお金でその後を成り立たせようというのである。だから、家電や雑貨を爆買いする一般的な中国人ではなく、不動産を買っている中国人に注目をすべきなのだ。動産では政府に取り上げられるかもしれず、不動産に投資しているのである。

しかし、なんとしても元をSDRに加えたかった中国政府は、資金流出にストップをかけることが出来ない。ストップをかければ、それはSDR加盟条件である自由取引に待ったをかけることになるからだ。それを知っているからこそ、中国の富裕層や政府上層部は今こそ億ションでもなんでも買い入れてきたのである。中国人の爆買いにも、ちゃんと背景があるのである。庶民の爆買いも同じ路線だが、金額の過多により、より注目するべきものがどちらかは明白であろう。

その爆買いが止まった。中国政府が資産流出に耐えきれず、ストップをかけたと考えられる。10月のSDR適用後を待つことなく、混乱が始まったと見ることも出来る。僕は10月以降に徐々に西側の金融ルールに組み込まれ、資金不足の中国に欧米資本が入り込み、経済支配をするだろうと思っていたが、その前に大混乱が起きるかもしれない。

中国経済バブル崩壊、経済破綻はずいぶんと前から言われ続けてきたが、習近平氏の指導力不足と外交下手とも相まって、いよいよ本格的なカウントダウンに入った感がある。中国市場の行方に要注意・要注目である。

政治への信託

世界における最近の選挙関連を見ていると、政治に対する信託の危機にあると思える。英国におけるEU離脱国民投票や米大統領選のトランプ氏優勢、東京都知事選挙における小池女史の躍進など、既存の支配階級に対する国民の「NO!」は世界的現象のように見える。支配階級たるエスタブリッシュメントへの不信任表明である。

だからこそ、「抗議のための投票と支持」が実現してしまうと、国民の間には動揺が起こる。英国でのEU離脱が決定されてからの国民の狼狽ぶりは、既存の支配階級への不信任ではあるけれど、それでも支配階級による統治のほうがマシと感じている国民の多いことを示した。熱いお灸を据えたつもりが火傷をしてしまったという後悔である。これはおそらく、トランプ米大統領が実現したときにも、アメリカでも同様の反応が起こるだろうと予測できる。

既存の支配階級に満足は出来ないけれども、それに代わりうる選択肢が見つからないのである。だから仕方なしに今の支配階級に支配を委ねるしかない。現今の日本における自民党支持と同じで、自民党に対する積極的支持では決してないのである。これは支配階級が国民の苦境を理解していない、国民の現状を把握し切れていないとの思いからであろう。統治者と被治者との隔絶である。

今、田中角栄に関する書籍が書店に溢れているが、手法は褒められたものではないけれども、国民のことを理解してくれていた政治家への郷愁があるからだと思う。「今は清廉潔白でもないし国民のことも理解していない政治家が増えたので、手詰まりだ」という国民の不満とも受け取れる。民主党政権誕生時の時には、民主党自民党に代わりうる政党として、国民のことを理解してくれているとの期待があったのだろう。それが裏切られた今、国民は希望が持てないでいる。

これは世界的な現象である。伝統的な支配階級が人々の声を吸い上げ切れていない。これが従来の統治構造にも疑問を投げかけている。トルコのクーデターやスコットランドの独立、イタリア・オランダ・スペイン・フランスでの大衆主義をあおる政党の台頭など、近代国家を支えてきた「社会契約」に綻びが生じている証左は枚挙にいとまがない。反グローバリズムとしての内向きなナショナリズム保護貿易、そして抗議のために拡散した支持、そして権力の分散化は、世界的現象である。

近代国民国家が挑戦を受けている。我々が生きる時代は、そうした時代である。20世紀のインフレの時代から21世紀のデフレの時代へ。経済体制だけでなく政治体制にも変革が訪れている。

中国流護送船団方式

戦後の日本の経済体制下では、「護送船団方式」と呼ばれた体制があった。「護送船団方式」とは、軍事戦術の一つで、船団の中で最も速度の遅い船に速度を合わせて、全体が統制を確保しつつ進んでいくことである。戦後、日本の特定の業界において、行政官庁がその許認可権限などを駆使して業界全体をコントロールし、経営体力・競争力に最も欠ける事業者(企業)が落伍することなく存続していけるように図っていた体制を揶揄した表現である。

特に、第二次世界大戦後の日本の金融行政において典型的にみられ、これによって日本の金融機関が「潰れない」という絶大な信用を得たことは確かである。そして、金融業界以外でも様々な業界で行政官庁の強力な行政指導が存在し、これらも「護送船団方式」と表現されることがある。戦後の日本にはあちこちに「護送船団方式」が存在し、体力の弱い復興期の日本経済を守り、牽引してきたと言えよう。

さて、この方式を文字通り、軍事戦術として採用しているのが、現在の尖閣諸島周辺における中国の動きである。200~400隻の「漁船」を仕立て、公船がそれを守るかたちで尖閣諸島沖、日本の領海に侵入してきている。接続水域や排他的経済水域ではない。領海である。これについては、日本は真っ向から厳しく対処すべきである。宥和政策をしてはならない。第二次世界大戦当時、ドイツに対して宥和政策を採り、そのまま済し崩し的にドイツの侵攻を許した轍を踏んではならないと思う。

第一次世界大戦による甚大な被害への反省と恐怖から、ヨーロッパでは「あらゆる戦争に対して無条件に反対する」という平和主義が台頭し、ドイツの主張に対して譲歩に譲歩を重ねた。「宥和」は「抑止」の考え方の対極にある。第二次世界大戦の敗戦経験から極度に「戦争アレルギー」になった戦後日本において、かつてのヨーロッパと同じように、甚大な被害への反省と恐怖から、毅然とした態度に出られないでいるように思う。しかし、その宥和政策の結果、第二次世界大戦という第一次世界大戦を上回る被害と恐怖に繋がった歴史の教訓に学ばなければならないと思う。

相手の主張に一定の尊重を示し、譲歩に譲歩を重ねても、無法者の欲はとどまるところを知らない。いや、欲の無限性は無法者に限らない。人間の性であろう。人間の性であるならば、宥和政策の破綻は目に見えている。「衣食足りて礼節を知る」という中国の言葉が示すとおり、「漁場が豊かだったから」と領海にまで侵入してきた中国には、食が足りていないから礼節は通用すまい。礼節が欠けているなら、話し合いも尊重も必要ない。強制力を用いて排除するしか方策がない。犯罪に対する警察力である。

話は変わるが、在日米軍については知事という職域を超えて訪米までして強行主張をしてきた翁長沖縄県知事が、今回の中国の領海侵入、沖縄県への侵入についてはずいぶんと静かである。沖縄県の漁民にとっては、生活を脅かされる事態に気が気ではないだろう。こうした県民の生活を無視していて、沖縄を守ろうと駐留している米軍基地問題には過敏に反応している。こうした県民・国民と政治家の意識のずれは、大きくは政治への信託という意味で、政治の崩壊へと繋がる。これについては稿を改めることにしよう。